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【お酒】501.日本盛 生原酒 本醸造 200ml [28.兵庫県の酒]

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日本盛株式会社
アルコール分:19度以上20度未満
原材料名:米(国産)、米こうじ(国産米)、醸造アルコール
精米歩合:70%
200ml
(以上、ボトルの印刷事項より転記)



今日は、日本盛さんが今年2月25日に発売開始した生原酒をいただきます。
日本盛さんについては、いくつかの文献でその生い立ちに関する記述を見つけました。
この記事の末尾で紹介しておきましたので、ご参照ください。


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冷やして飲めと書いてあることですし、生の原酒ですから、冷蔵庫で冷やしたものをいただきます。
その前に、このお酒ですが、色はそれほど着いていません。
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一口含むと、アルコールの香りが強めであることがわかります。
20度もあるわけですから、仕方がないことでしょう。

うまみはけっこうしっかりしています。
生酒らしいフレッシュな風味とともに、やわらかいうまみを感じます。
酒臭さや熟成感はないですね。

酸味はちょっとはっきりしているくらいです。
さわやかな酸味です。
刺激やピリピリ感はありません。

甘みは強くはないですが、その存在はわかります。
ですが、アルコールの香りの陰に隠れているように思います。


生酒らしいフレッシュな風味と、やわらかいうまみをしっかり感じる、やや濃醇で旨口のおいしいお酒でした。
アルコールの香りが強めであるものの、酒臭さや苦み、それに酸味の刺激がないので、口当たりよく仕上がっています。
甘みもそれほど感じないので、食事と合わせやすいと思います。

このお酒は原酒ですが、アルコールの添加量が限られている本醸造です。
それにもかかわらず、アルコール度数は20度もあります。
これは私の推測ですが、もしかして発酵を限界近くまで進めているのでしょうか。
甘みが少なかったのは残存糖分が少ないからでしょうが、これも発酵をしっかりと進めた結果かもしれません。

あ、やっぱり、後から効いてきましたわ。
飲み終わって立ち上がろうとしたら、少しフラつきました。




★☆日本盛についての記述紹介★☆

(1)創業時から会社

酒造会社の多くは個人事業主から出発し、現在においても同族会社として存在しています。
これに対して日本盛さんは、有志の出資によって最初から酒造会社として設立されたそうです。
このことについて、文献では以下のように紹介しています。

王政復古の大号令のもとに発足した明治新政府は、一刻も早く先進諸国に追いつくことを目標とし、経済活動の自由を経済政策の基本方針とした。殖産興業政策も、その一つである。その中で、とりわけ力を入れたのが、会社企業の奨励である。個人の資本を会社に結合して、外国資本に対抗させようというのである。
そんな企業ブームが本格的に盛り上がった時期に誕生したのが「南摂青年協会」である。新時代にめざめて相互の識見を広め、青年の教養や社会の交易に貢献しようというのが、設立の目的だった。発起人は、紅野太郎、森本甚兵衛以下六名、彼らのもとに五十余名の青年達が参集した。明治二十一年のことである。
その中から「産業の興隆に資し、西宮の発展に役立つ事業を企てよう」とする有志たちがあらわれて「青年有為会」を結成し、翌明治二十二年、「西宮酒造株式会社」の前身である「西宮企業会社」を設立したのである。以後、酒造業に乗り出すことになるが、これが当社のルーツである。」(※1)

西宮企業は伊藤保平、森本甚兵衛、飯田寿作、紅野太郎、吉井良晃ら当時の西宮の若手、新鋭グループの合同事業だ。紅野太郎はのちの初代西宮市長、吉井良晃は西宮神社の神官。“えべっさん”のお守り役が酒造業に参画するあたり、いかにも西宮らしい。とにかく西宮ではなすことすべてが新しくしかも商売に徹し切っていた。酒造界の“明治維新”は西宮から始まり、五郷全体に及んだ。」(※2)


(2)資本の集中

今も日本盛さんは株式会社ですが、その株式はどうやら少数の大株主によって牛耳られているようです。
この点について、文献では以下のように紹介しています。

西宮酒造(日本盛に変更する前の商号:ブログ筆者注記)の創業は明治二十二年。西宮市の気鋭の青年実業家たち十八人が、共同出資して蔵を借り入れたのを始まりとする。老舗の多い灘五郷の蔵の中では比較的新しい企業だが、大正中期には造石高日本一を記録するほどの急成長を見せた。さまざまな人材が集まり、能力を生かす余地があったのが高度成長の原動力とされた。しかし、その後は伊藤、森本、八馬の三家が大株主となり、彼らが交代で経営を牛耳ってきた経過は、生い立ちに比べていささか古めかしい。」(※3)


(3)経営陣の対立

合同事業にあって、個人事業にはないものがあります。
それは、経営陣同士の対立です。
(最近では親子の仲が悪い家具屋さんもあるみたいですが…。)
日本盛さんでもかつて経営陣が対立したことがあったようで、文献では以下のように紹介していました。

五十五年六月二十七日、「日本盛」の西宮酒造株主総会。いつもは形だけで終わるのだが、この日は様子が違っていた。議長を務める当時の社長・八馬理も多少不安があった。しかし、決算案も予定通り承認されたし、八馬を含めた十一人の取締役全員の選任案も一気に可決を図るべく、声を一段と強めて承認を求めた。会場から「議長一任」の声がかかった。その途端だった。突如、会場は大混乱に陥った。
「異議なし」「反対」の声が乱れ飛び、立ち上がって怒鳴っている者もいる。だが、八馬は議事終了と判断して、株主をにらみつけ閉会を宣言、壇上から姿を消した。直後八馬への罵声が連発され、やがて“政変”へとつながる。八馬が退出したあと、残った株主が反旗を翻したのだ。閉会を認めない、と騒ぎ、会長の森本省三を議長代行に選び総会を続行、八馬を除く十人の取締役を選任した。八馬は社長を解任され、代わって森本がその座に上り、“お家騒動”が始まることになる。
総会の混乱には伏線があった。直接の発端は六月二日の決算役員会。八馬はビールメーカーから役員一人を迎え入れ“森本派”の役員を解任しようとして、逆に辞任要求を突きつけられた。有力食品問屋の仲介で、八馬が提案を白紙撤回、六月十日には取締役会を終え、無事に株主総会が開かれるはずだった。しかし、森本派はひそかに株集めに走り、対立は株主総会で一挙に表面化することになった。」(※4)

ところで、政変の後、森本新社長は、八馬派役員を降格する人事異動を発令した。八馬が設置したマーケティング室の廃止など機構改革も実施、八馬派は一掃されたかに見える。一方、八馬も“反撃”開始。社を相手取って、取締役の地位確認を求める訴えと、地位保線の仮処分を申請した。仮処分のほうは却下されたが、本訴は係争中だ。和解工作もまだ実っていない。」(※5)


このあと、いったいどうなったのでしょうか。
引用が長すぎましたので、この辺で止めておこうと思います。
どうせまだ調べていないだけだろ!



(※1)日本盛株式会社編『日本盛物語』p.58(2001.10 文芸社)
(※2)読売新聞阪神支局編『宮水物語-灘五郷の歴史』p.220(1966.12 中外書房)
(※3)神戸新聞社会部編『生一本 灘五郷-人と酒と』p.52-53(1982.11 神戸新聞出版センター)
(※4)(※3)p.51-52
(※5)(※3)p.54
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