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【お酒】410.福小町 冷撰本醸造 300ml [05.秋田県の酒]

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株式会社木村酒造
秋田県湯沢市田町二丁目1番11号

アルコール分14.5度
原材料名 米(国産)・米麹(国産米)・醸造アルコール
精米歩合70%
300ml詰
(以上、ラベルより転記)


ある文献を読んでいたところ「秋田県内で確証のある現存の最も古い酒造業者雄勝郡湯沢の木村角右衛門家の「福小町」の創業はこの1681(天和元)年である。」という記述がありました(※1)。

あれ?、たしか、にかほ市の飛良泉さんは、もっと古いんじゃなかったっけ?
と、思いましたが、同じ文献には「由利郡仁賀保町で「飛良泉」を醸造している斎藤市兵衛家では、その創業を、史料はないが、永享年間(1429~40)とする伝承を有している。」との記述がありました(※2)。

一方、秋田県酒造協同組合のWebsiteでは、秋田県内で一番古い蔵元さんを飛良泉さん、そして福小町の木村酒造さんを二番目と紹介しています。
まあ、“二位じゃダメ”というわけではないと思いますし、両方とも古い蔵元さんであることは確かですので、これでよいのでしょう。


その秋田で二番目に古い木村酒造さんのある秋田県湯沢市は、秋田でも屈指の銘醸地です。
両関や美酒爛漫(秋田銘醸)といった、全国的にも有名な大手の蔵元さんがあるのも湯沢です。

ですが、その湯沢は、決して古くから銘醸地であったわけではなかったようです。
このことについて、木村酒造さんの酒造りを紹介する文献は、「江戸時代には、銘醸地として全国に知られた伊丹に、自ら出かけて酒造技術を学んだ後、現地から杜氏を招いて指導を仰いだ。その後も山形県大山からも杜氏を招いている。いまだに、蔵のあちこちに残された酒田流(大山流)の道具使いは往時の名残でもある。」と記述しています(※3)。

秋田のほかの地域からではなくて伊丹や大山(山形県鶴岡市)から技術を学んでいるということは、江戸時代には、湯沢のみならず秋田の地に適した酒造技術はまだ確立していなかったということを推察できると思います。


秋田では、いつから独自の酒造りの技術が確立したのでしょうか?
それは、どうやら“明治末期から昭和初期にかけて”という、比較的新しい時期であったようです。
この点については、私が調べた限りのことをこの記事の末尾にまとめておきました。
まとめたといっても、文献の引用が多くなってしまい、決して小さくまとまってはおりません。
読みにくいと思いますが、どうかご容赦下さい。


このお酒には、“冷撰”と銘打ってあります。
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これは冷やして飲めという意味でしょうか?
しかし、品質表示を見る限り、生酒や生貯蔵酒ではないみたいです。

そういえば、同じ湯沢の両関や、山形県酒田の初孫にも、火入れしてある冷用のお酒がありました。
ここは素直に、冷蔵庫で冷やしたものをいただきます。

その前に、このお酒ですが、ほんの少し色がついています。
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うまみは淡めですが、しっかりしています。
冷酒らしいフレッシュな風味がします。
それに、冷酒なのに酒臭さ(←ほめ言葉です)をほんのりと感じます。
それでいて、苦みや雑味はありません。

酸味はかなりひかえめです。
ほんのわずかにさわやかさを感じるくらいでしょう。
ですが、いただいているうちに徐々に酸味がはっきりしてきたようにも思います。

甘みはひかえめで、ほとんど感じません。


淡いがしっかりしたうまみをピンと感じることができる、淡麗旨辛口のおいしいお酒でした。
甘みで味をごまかすのではなくて、うまみで勝負する冷酒でしょう。
よくありがちな甘ったるい生貯蔵酒なんかよりもはるかにおいしいと思います。
それに、食事との相性もよいですね。




☆★秋田の酒造りについて☆★

(1)秋田の米:古くより酒米として良質

江戸時代、伊丹や灘では秋田のお米を用いて酒造りがなされていたようです。
これについて、ある文献では以下のように紹介しています。
藩政時代、佐竹藩は日本海航路に北前船により沿岸各藩をはじめ瀬戸内海を経て波華に米、木材等の物産を移出し生活物資を移入し交易が盛んに行われた。
寛政10年(1798)刊行の「日本山海名産図会」の「摂州伊丹醸造」の項に
   もと米は地廻りの古米、加賀、姫路、淡路等を用ゆ、
   えそ米は北国古米第一にて、秋田、加賀等をよしとす。
と記してある。
(“もと”は酉へんに胎、“えそ”は酉へんにるまた)
また享和3年(1803)灘御影村において肥前米とともに秋田米が使用された記録もある。」(※4)


秋田の水が良いことや、寒造りに適していることは、かんたんに予想できます。
それに加えて、お米も酒造りに向いたものが古くから栽培されていたようですね。
ということは、酒造りが発展する条件は、江戸時代から整っていたということになりますね。


(2)酒造業発展の契機:江戸時代の鉱山開発

秋田で酒造りが盛んになった契機は、江戸時代に行われた鉱山開発にあったようです。
これについて解説した記述を、下記の二つの文献で見つけました。

酒造業は、自然環境に育まれた産業であることがわかるが、その一方で造られた酒をさばく市場がなければならない。
藩政期にこの地方に多かった金・銀・鉛・錫を産する鉱山の存在が市場として大きな役割を果たしたといわれている。すなわち、尾去沢鉱山や小坂鉱山のみられた鹿角郡には郡内人口に比して酒造業者が多かったといわれ、また院内鉱山のある雄勝郡では湯沢が酒造の町として発達して今日にいたっており、また、隣接する由利郡の矢島でも院内鉱山に酒を売り込む業者が出現する。」(※5)

藩政時代の酒造業の発展には鉱山の開発が大きな要因の一つとなっている。入部直後の慶長11年(1606)、県南の現雄勝郡院内に新たな優れた銀鉱脈が発見された。
慶長12年(1607)年の開鉱とともに多数の労務者が集り、当時の人口7,000人余人と記されており浮動的人員も相当に多く、一時は久保田町(秋田市)の人口を上廻る藩内最多の人口を有した。したがって鉱山労務者の酒の需要は極めて多かった。
また外に藩内各地の鉱山の開発も進められ、一時はその数388とも記されている。現在の小坂、尾去沢鉱山等のある県北鹿角郡は当初南部領となっているので、それらの鉱山を加えると400以上の鉱山が在ったことになり、周辺の酒造業の発展をもたらしたことが推測される。」(※6)


(3)江戸時代における酒造業:小規模経営・地産地消

しかし、前述した木村酒造さんの例(※3)のとおり、この時代にはまだ酒造りの技術が確立していなかったようです。
このことについて別の文献では、「秋田の先人の酒造技術の導入はやはり先進地の関西をはじめ山形の大山、青森の津軽などに頼ったことは事実で、現存する古文書に残っている。」と述べています(※7)。

江戸期に酒造技術が確立しなかった理由について、文献では以下のように解説していました。
少なくとも、近世において杜氏と呼ばれる技術集団が発生しなかったのは、秋田の酒造が企業化したといっても、原材料が酒造業者の小作米を含む自家保有米の量を大きく超えるものではなかったことによるといえよう。要するに小規模経営であり、造られる酒も地域消費が前提の、いわずもがなの地酒であった。」(※8)


小さい蔵ばかりだったことから、技術を確立する余裕がなかったということでしょうか。
それに、造れば地元で確実に売れるわけですから、江戸や上方へ良質の酒を売り出す必要もなかったのでしょう。


(4)酒造技術の確立:伊藤忠吉・花岡正庸・佐藤卯兵衛

秋田で酒造技術が確立したのは、明治末期から昭和初期にかけての間であったようです。
ある文献には、それを集約するような記述がありました。
秋田流そのものの造りの根底には時代的に見て湯沢の伊藤忠吉氏、大正中期から昭和初期にかけての花岡正庸先生の指導大正末期から昭和初期にかけての新政の佐藤卵兵衛氏(原文ママ)等の技術探究が結集されて組み立てられているように思えてならない。」(※9)
(佐藤“卵兵衛”の記述は、“卯兵衛”が正しいと思いますので、以下“卯兵衛”と表記します。)


これら三氏の活躍を紹介している記述を、以下に引用しておきます。

明治40年、42年の第1回、第2回全国清酒品評会において「両関」が一等賞を受賞し、大正2年の全国品評会において、「両関」が東京以北で初めて優等賞を受賞し全国の注目するところとなり、これを契機として県内酒造家は技術の向上と品質の改善に励むようになりました。」(※10)
明治41(1908)年、日本醸造協会主催の第1回酒造講習会に伊藤忠吉(両関)が参加して新技術を研修し、さらに灘で数年間実地に研修して帰来後、寒地に適応する方法に改良して県内酒造家へ普及を図った。」(※11)
(追記:両関酒造さんによる酒造技術の改良については、こちらもあわせてご参照ください。)

大正7年には仙台税務監督局技師花岡正庸氏が本県技師兼務となり、氏の指導により全県の酒質は愈々向上し、同11年、本県酒造家全員の出資により東京市場進出を目的として秋田銘醸(株)「爛漫」を創立、伊藤忠吉、花岡正庸両氏が技術担当となって指導にあたった。」(※11)

佐藤卯兵衛氏は、原料米の選択から精米工程の品質管理をはじめ製麹、酒母、醪の製造工程における品温、成分の変化を詳細に調べたほか、各工程の官能上の所管も記載した経過帳を作成し、また他人の意見も記入して区分ごとに製成酒の特色を把握することに努めた。(中略)そのような努力によって遂に銘酒造りの奥義を極み、品評会における抜群の成績をおさめ、かつ市場酒の名声も高めたのである。
この優れた芳香を有する優良酒の醸出には、発酵の根源である酵母に何か特殊性を持つに至ったのではないかと技術者の間に話題が出て、醸造試験所の小穴冨司雄技師が昭和5年の冬に新政の醪を採取し、数株の分離した酵母から香気が高く、かつ発酵力の強い菌株を選抜した。
その後分離した酵母は全国各地で実地醸造試験が行われたほか、最終的には昭和9年度の全国清酒品評で秋田の酒が優等首席に入賞したことから確信を深め、昭和10年10月より日本醸造協会の6号酵母として一般に販売され、現在でも穏やかな芳香を有する酒が醸出されるため、多くの銘醸家に愛用されている。」(※12)



(※1)岩本由輝『東北の伝統産業史(5)秋田の酒-地酒から全国銘柄へ-』p.39(東北開発研究 通巻112号 1999.4 財団法人東北開発研究センター)
(※2)(※1)p.37
(※3)秋田魁新報社事業局出版部編『あきた地酒の旅』p.131(1995.9 秋田魁新報社)
(※4)深味春輝『藩政時代に始まる秋田県酒造業と酒造政策』p.105(日本醸造協会誌第82巻第2号 1987)
(※5)(※1)p.37
(※6)(※4)p.106
(※7)池見元宏『秋田の酒造技術の歩み』p.796(日本醸造協会誌第79巻第11号 1984)
(※8)(※1)p.39
(※9)(※7)p.800
(※10)深味春輝『秋田の酒』p.6(醸造論文集-日本の酒の伝統と技術(日本醸友会60周年記念講演会)- 通号43 1988 日本醸友会)
(※11)(※4)p.109
(※12)(※7)p.800
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あ~酒臭かった! 31

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遠霞(とおがすみ)

湯沢のお酒が続けてアップされていますが、私は湯沢では、圧倒的にこの蔵元が好みです。秋田杜氏というお酒のしぼりたてが抜群に美味しかったので、それ以来贔屓の蔵元になってます♪
by 遠霞(とおがすみ) (2014-12-06 22:31) 

skekhtehuacso

遠霞さん、コメントありがとうございます。
福小町は、手元にはあと二種類ありますので、いずれご紹介することになると思います。
秋田のお酒に関する文献はけっこうあるので、楽しみながらいただくことができます。
by skekhtehuacso (2014-12-06 23:40) 

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