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【お酒】550.大山 本醸造 ささの舞 カップ [06.山形県の酒]

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加藤嘉八郎酒造株式会社
山形県鶴岡市大山三丁目1-38

180ml詰
原材料名 米(国産) 米麹(国産米) 醸造アルコール
精米歩合 65%
アルコール分15.0度以上16.0度未満
(以上、ラベルより転記)




加藤嘉八郎酒造さんのお酒は、かつて大山の金撰(糖添)と特別本醸造、そして大山の本醸造生酒とをいただいております。
今日いただくこのお酒は、火入れされている本醸造のカップ酒です。


このお酒は、山形県鶴岡市の“大山(おおやま)”という地区にある蔵元さんが造ったものです。
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大山は、かつては酒造業が盛んだった場所なのだとか。
今でこそ蔵元さんは4軒(今日いただくこのお酒の加藤嘉八郎酒造さんの他に、渡會本店さん冨士酒造さん、羽根田酒造さん)しかありませんが、江戸時代には30軒以上の蔵元さんがあって、東北の灘と言われたほどの銘醸地だったようです。

この大山のことについては、このブログの末尾にまとめておきましたので、ご覧ください。


本醸造のカップ酒ですので、今日もぬる燗でいただきます。

このお酒ですが、色はほんの少し着いている程度です。
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うまみは濃くは感じませんが、しっかりしています。
醸し出された酒臭い(←ほめ言葉です)うまみをかすかに感じます。
それに、わずかに香ばしさも感じます。

酸味はひかえめです。
少しすっぱさとさわやかさとを感じる程度です。
ですが、燗が冷めてくるにつれて、酸味がすこしはっきりしてきたようです。
刺激やピリピリ感はありません。

甘みはひかえめですが、少しだけ感じます。
コクを添えるにはちょうどよいくらいだと思います。


ややしっかりしたうまみと、ひかえめの酸味と甘みとの、旨口のおいしいお酒でした。
特別純米酒よりも飲みやすく感じました。
もしかして、これはアル添の効果でしょうか?




★☆大山の酒造業について★☆



(1)酒造業の発展:江戸時代中期から

大山で酒造業が盛んになり始めたのは、どうやら大山が幕領(江戸幕府の直轄地)となった元禄年間(1688~1704年)頃からのようです。
その後、明治の初期にかけて発展しますが、明治中期になると急速に衰えていったようです。
このことについて、文献では以下のように紹介していました。

鶴岡の中心地より西方約8kmの距離に位置する大山の酒造業が盛んになったのは、元禄の頃からであると云い、幕領で酒井家の支配下になかったことがここに醸造業が盛んになった原因であるといわれている。
大山酒は明治13年(1880)には3万石の生産高になっているが、この頃が最も盛んであったらしく、明治17年(1884)の大火以降次第に衰運に向い、大正のはじめ頃は6千石に過ぎなかった。」(※1)

正保4年大山領1万石が酒井忠解に分封され、一時領主の居館が置かれたが、寛文8年(1668年:ブログ筆者注記)忠解の死後公収されて幕領となつた。これと前後して成立した丸岡領、餘目領をあわせて2万7千余石の幕領は或は御料代官の直接支配、或は荘内藩の預地支配をうけ、幕末の元治元年(1864年:ブログ筆者注記)荘内藩へ増封として与えられるまで続いた。
【中略】
近世初期の城下町時代に源を発すると考えられる大山の酒造業は酒井氏時代の寛文頃までは鶴岡城下の酒造業に比肩すべくもなかつたが、御料時代に入り鶴岡、酒田の酒造業を圧して発展し、清酒生産高は文化期(1804~1818年:ブログ筆者注記)に7千石台を突破し、その後若干の増減があり、明治初年から10年代には最盛期を迎え、明治15年の醪高1万5千石(清酒高1万3百余石)に達した。」(※2)



(2)酒造りが発展した要因:幕領だったことが影響大

大山酒発展の要因には、良港であった加茂湊を近くに持っていたことや、あるいは株仲間の団結が固かったことなどが挙げられるようですが、中でももっとも大きな要因となったのが、上記の“幕領であったこと”なのだとか。

寛文8年幕領となったこと、荘内の幕領は27,000石の小範囲に過ぎなかった上に、荘内藩の長い預支配を受け、また荘内藩の自領酒擁護政策と対決しなければならなかったが、幕領の権威は紛争の解決を有利にし、生産量や販売の拡大に大きな力となった。」(※3)


幕府は、江戸時代初期には酒造りを抑制する政策を採っていたそうです。
しかし、その後米価が下落したことから、需給調整のために酒造りを奨励する政策に転換しました。
このことは、大山酒発展の一因にもなったようです。

大山村の酒造家数はその後増加し享保10年には29軒、宝暦7年には40軒、同8年には39軒となつたが【中略】このような酒屋の増減の原因は経営史料の欠如のため解明し得ないが、米穀の需給関係の変化に伴う酒造政策の転換と密接な関連をもつていたと考えられる。元禄期以来継続していた高米価が享保末年に至り急速に下落し、享保6年には幕府は買米令を発し、地方から大坂、江戸への廻米を制限する米価引上政策をとり、酒造業に対しては増造りを奨励し宝暦4年(1754年:ブログ筆者注記)には勝手造りの積極政策に切り替えたのである。」(※4)


その後、酒造量を1/2あるいは1/3と制限する政策は幾度か採られたものの、その後緩和されるという事態を繰り返して、幕末へ至りました。
しかしそれも、大山酒にはそれほど影響を与えなかったようです。

大山酒の造石数は安永期に既に3,2~300石に達し、天明より寛政に入いると1/2造り、1/3造りにもかかわらず4,500百石(原文ママ)から5,000に増加し、幕府の酒造米制限には殆んど左右されないことが注目される。」(※5)



(3)酒造りの技術:上方には負けるが、東北随一

大山における酒造りの技術は、もともと奈良から伝わったようです。
奈良のお酒は戦国期に完成されて「「南都諸白(なんともろはく)」と呼ばれ、織田信長や豊臣秀吉も愛飲したと伝えられてい」るそうですが(※6)、その後江戸時代に入ると、酒造技術と酒造量とで伊丹や灘に先を越されてしまったようです。

大山酒の酒造技術に関する古い史料はないが、「酒造業の沿革現況及び地方経済上の効果」によれば、大山酒の酒造法は古来奈良造りで、明治14年より上方造りが始まったとされている。大山造りと上方造りの最も大きな相違は添加する水の量にあった。明治6年の大山造りと明治20年の上方造り法を比較するに前者の水の量は酒米に対して75.5%後者は97.9%となっている。」(※7)

伊丹諸白のいまひとつの特色は、量産方式の採用にあった。諸白は、酒母に麹と蒸米・水を三段に分けて仕込む。その際、南都諸白では各段階ともこれらを等量に仕込む方式だったから、大きな酒造量は望めなかった。しかし、伊丹諸白では各段階ともこれらを倍加させながら仕込む方式であったから、比較的大量の造酒が可能となった。」(※8)


それでも大山酒の技術は東北においては比較的高く、大山の杜氏が他地方へ出かけてその土地の地酒を造っていたようです。
そういえば、以前、秋田のお酒をいただいた際に「秋田独自の酒造技術が発展したのは明治末期から昭和初期にかけてであって、それ以前は大山から杜氏を派遣してもらっていた。」ということを紹介したことがありました。
今回、大山酒について調べたことで、その裏付けをとることができました。

大山の酒造技術が鶴岡酒田を圧して秀れていたことは多くの史料の物語る処であるが、大山に他国から杜氏が入った形跡はまったくなく、むしろ大山から他への進出が見られた。例えば天保4年鶴岡の酒屋仲間が沖出しを目的として大規模な酒造場を計画した時には大山の酒屋六兵工を杜氏に迎えようとしたし、秋田方面に杜氏として毎年出掛ける者も少なくなかった。」(※9)



(4)大山酒の販売先:主に松前(函館)と新潟

大山酒の販売先は、東北の隣国ではなかったようです。
隣国ではむしろ自領酒保護の政策をとっていて、大山酒の受け入れを阻止していたとのこと。
上方から(より良質な)お酒が届かない地域では、きっと大山酒がもてはやされたのでしょう。

荘内藩の自領酒擁護政策によって荘内における地売の拡大を阻止された御料酒、就中大山酒はその活路を沖出し(他国への販売:ブログ筆者注記)に求めた。
【中略】
恒常的な沖出先は主として松前、新潟であつたが、臨時的には江戸、加賀、長州、長崎、仙台などもに売り出された。
【中略】
遠国への大量廻酒は一般に大山酒の繁栄の証拠とみなされているが、事実は荘内ならびに松前、新潟の市況不振のため残酒の処分に苦しみ損失を覚悟の上で敢てした商法であつた。」(※10)

幕末期に入り荘内藩が蝦夷地警備に当るとともに大山酒の松前廻しが増加した。」(※11)



(5)衰退:流通ルートの変革により他地域の酒に負けた

最後に、酒造業が衰退した原因に関する記述を引用いたします。
上記(3)で上方の酒には劣ると書きましたが、どうやら東北本線の開通によって上方の酒などが北海道へ流入するようになったことが大きかったみたいです。

たび重なる税額の改定による自家醸造の盛行、それにともなう酒造家の倒産、廃業が挙げられる。さらに関東、関西地方の酒が県産酒を圧迫し、市場を奪った点も見逃せない。」(※12)

大山酒の造石数は明治20年代に入ると数千石に減少するが、その原因を明治17年の大火の打撃と考えるよりは明治14年以降の不況、酒造税の増徴、特に東北本線の開通に伴う北海道市場への輸送上の不利など経済的社会的条件に帰する方が妥当であろう。」(※13)

明治維新の変革により幕藩体制は崩壊し、酒造業においても酒株制度が廃止され、酒造業の開業、生産、販売が自由化された。大山酒の明治10年代における飛躍的発展は江戸時代に蓄積された実力がその様な自由化の中に爆発したものというべきであろう。しかし明治14年には不況が始まり、明治16,17年には恐慌が起こり、20年代には東北本線の開通にともない輸送事情が変化し、関東上方酒の東北、北海道市場への活発な進出が見られ、さらに酒税の増徴もあって荘内の酒造業は沈滞する。この傾向は大山酒の生産量の変遷の上に最も顕著である。」(※14)




(※1)大沼堅司『山形県酒造小史』p.414(日本醸造協会誌82巻6号 1987.6)
(※2)斎藤正一『大山酒造業発達史1』p.34(鶴岡工業高等専門学校研究紀要 創刊号 1967.4)
(※3)斎藤正一『大山酒造業発達史2』p.18(鶴岡工業高等専門学校研究紀要 第2号 1968.6)
(※4)(※2)p.36
(※5)(※2)p.43
(※6)山田二良『奈良の銘酒』p.11(2011.2 京阪奈情報教育出版)
(※7)(※3)p.6
(※8)鈴木芳行『日本酒の近現代史 酒造地の誕生』p.31(2015.5 吉川弘文館)
(※9)(※3)p.6
(※10)(※2)p.48
(※11)(※2)p.49
(※12)(※1)p.415
(※13)(※2)p.50
(※14)(※3)p.19
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あ~酒臭かった! 41

酒くさコメント 2

toshi

このワンカップ、ラベルがいいですね。
色のついている酒は美味しそうに見えます。
by toshi (2015-05-11 02:12) 

skekhtehuacso

toshiさん、コメントありがとうございます。
私はお酒の色にだまされたこともありますが、黄金色だとおいしそうに見えますね。
by skekhtehuacso (2015-05-11 23:25) 

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