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【お酒】695.本醸造 上撰 辛丹波 300ml [28.兵庫県の酒]

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大関株式会社
兵庫県西宮市今津出在家町4-9

原材料:米(国産)・米こうじ(国産米)・醸造アルコール
精米歩合70%
アルコール分15度以上16度未満
300ml
(以上、ラベルより転記)




辛丹波という名前が付いていますが、灘今津郷に蔵を構える大関さんのお酒です。
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大関さんのお酒は、かつてオダキュー天下の険の上撰カップと、創始者の名が付けられた大吟醸の超特撰大坂屋長兵衛とをいただいております。
今日いただくこのお酒は、“淡麗辛口”と銘打たれた本醸造です。
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このお酒ですが、私の住んでいる地域では、どこのスーパーへ行っても必ずあると言ってもよいほどよく見かけます。
酒集めの旅に出かけて、各地にあるスーパーの酒コーナーを覗いた際に、お目当ての地酒はなくてもこのお酒とワンカップ大関とだけはあって、がっかりしたことは数知れません。

今日はそんながっかりな広く販売されているお酒をいただきます。


また、このお酒のラベルには、“丹波杜氏伝承造り”と表記されています。
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“杜氏”というのは、「酒造工の長として杜氏補佐以下を総括、蔵内の管理全般」(※1)を職務とする人、すなわち酒造りのリーダーのことを指します。
しかし、「その出身地別に出身地名を冠して、杜氏個人またはその集団を「〇〇杜氏」とも呼ぶ。」(※2)そうです。

それ故、“丹波杜氏”とは、丹波地方を出身とする、杜氏とそれによって統率された酒造りの集団のことを指しているものと思われます。


この丹波杜氏ですが、「主として兵庫県、特に灘五郷の酒造に従事する杜氏として有名である。」(※3)と書かれているように、古くから灘五郷の蔵元さんとの結びつきが強かったようです。
すなわち、灘五郷で酒造りが発展した一因として、この丹波杜氏の存在があるようなのです。

なぜ、丹波杜氏は灘と結びついたのでしょうか。
というよりも、なぜ丹波の地で杜氏集団が形成されたのでしょうか。
これらのことについては、この記事の末尾で触れておきましたので、興味がおありの方はご覧ください。


というわけで、丹波杜氏伝承造りであるこのお酒を、そろそろいただいてみたいと思います。
本醸造ですので、今日もぬる燗でいただきます。

お酒の色は、無色でした。
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うまみは淡めですが、淡いなりに感じます。
酒臭さはなくて、やわらかいうまみです。
淡いせいでしょうか、苦みや雑味はありません。

酸味ははっきりしています。
すっぱさがかなり豊かです。
それに、ちょっとピリッと感じます。

甘みはひかえめですが、ゼロではないみたいです。
ほんのわずかですが、存在を確認することができます。


酸味が際立った、たしかに淡麗辛口のお酒でした。
これは酸味を味わうお酒でしょう。
甘みはわずかにあるものの、ちょいピリの酸味によって辛口に感じます。
雑味がなくてきれいな味わいですが、この酸味は好みの分かれるところだと思います。




★☆丹波杜氏発展の要因について★☆


丹波杜氏は、兵庫県の中東部、篠山市を中心とする地域を地盤とする杜氏とその集団のことです。
この地域は、灘の酒造業者から見れば六甲山を越えてちょっと行った辺りと、地理的には比較的近い場所です。

この地域で杜氏集団の形成が盛んになった理由はいくつかあるようですが、単に地理的に近かったからということだけではなく、とくに両者の利害が一致したことが大きいようです。

特に、江戸時代の中後期には、貨幣経済の浸透により、丹波の農民たちにとって冬期における副業の有無は死活問題ともなっていたようです。
それ故、農民側の利点(冬期における副業の獲得)は、酒造りの技術を必死に習得して酒造家の要望を満たすように彼らを動機付けた要因となったのではないでしょうか。


このことを述べている文献の記述を、以下に紹介します。

兵庫県の中東部、京都、大阪両府に界する多紀郡は徳川時代より、いわゆる「丹波杜氏」の出身地として広く世に知られている。農家の成年男子は稲の収穫が終われば灘五郷をはじめ各地方へ出稼ぎし翌年四、五月ごろ大枚の金を身につけて帰郷するという伝統的な慣習がある。」(※4)

丹波杜氏発生の外的要因として、地理的に丹波が酒造地池田、伊丹、灘目(武庫川下流より生田川にいたる灘五郷を含む地域)に近く(中略)、これらの地区における酒造業の発達にともなう、労働力や技術の需要を丹波に求めたものと思われる。
しかし、酒造出稼を丹波の農民にえらばせた直接的な原因は、この地方の気候条件が農業技術の幼稚であった往時において、農業の発達をさまたげ、農民が農業以外の他の副収入の道を求めざるをえなかったことにあろう。」(※5)

それでは何故、この地方の農民が、このように大挙して出稼するようになつたのであろうか。いわば出稼誘発の原因であるが、一般にはその地が冬期寒冷・積雪のため裏作の不能なことが指摘されている。(中略)江戸時代中頃までの未熟な農業技術をもつてしては冬期の裏作ということはなかなかの困難事であつたろう。裏作が不能であろうばそれだけ農民の生活が苦しいことはいうまでもない。
享保・元禄の頃を劃期とする貨幣・商品経済の急激な発達はこの勢に一段と拍車を加え、全国的規模において農民層の階層分化を押進めたのであつたが、このような形勢の下で、ともかくもかれらの生存を可能ならしめたものは、商品生産の発達に伴う副業の存在であつた。(中略)幸ともいおうか、この地方は丹波街道を通じて伊丹・池田・灘の大酒造地と繫り、而も耕作不能の農閑期と酒の生産期が都合よくマツチするため、ここに酒造出稼人として家計補充の方途を見出すことができたわけである。」(※6)


これらの文献では、丹波杜氏のことについてのみ論じております。
しかし、これは私の推測ですが、(地理的条件はともかく)これと同じことは江戸期から続いている杜氏集団の多くにも少なからずあてはまるのではないでしょうか。


(※1)灘酒研究会編『改訂 灘の酒 用語集』p.295(1997.10 灘酒研究会)
(※2)小泉武夫監修『日本酒百味百題』p.184(2000.4 柴田書店)
(※3)(※1)p.297
(※4)桑田昭三『丹波杜氏農業をこう見る-専業にまさる出稼ぎ兼業の農業基盤-』p.49(農林統計調査 第14巻第3号 1964.3 農林統計協会)
(※5)菅間誠之助『丹波杜氏(杜氏風土記)』p.48(日本醸造協会雑誌 第61巻第1号 1966.1)
(※6)井上洋一郎『酒神への奉仕者-丹波杜氏の歴史的考察-』p.23(経済人 第8巻第1号 1954 関西経済連合会)
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酒くさコメント 2

エクスプロイダー

大関のワンカップは最近は訳あって敬遠していますが、最近季節限定のにごり酒ワンカップが普通酒から純米酒に昇格したので、興味本位とブログのネタの為に呑みました。
by エクスプロイダー (2015-10-18 21:22) 

skekhtehuacso

エクスプロイダーさん、私はワンカップ大関はいつかいただこうと思って取ってあります。
ワンカップ大関がなければカップ酒文化そのものがなかったわけですから、決して軽く扱うことはできません。
by skekhtehuacso (2015-10-18 22:22) 

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