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《焼酎》26.甘藷翁 利右衛門(カライモおんじょ りえもん) 200ml [9946.鹿児島県の焼酎]

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指宿酒造株式会社
鹿児島県指宿市池田6173番地1

本格焼酎
原材料/さつま芋・米こうじ
アルコール分/25度
200ml
(以上、ラベルより転記)




鹿児島県指宿市。
薩摩半島の先端にある池田湖のほとりに蔵を構える蔵元さんが造った芋焼酎です。




“利右衛門”いう銘ですが、これはもともとは人の名で、どうやら琉球からさつまいもを持ち帰ってきた漁師だったのだとか。
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この利右衛門さんについて、文献には以下のような記述がありました。
『三国名勝図会』には、次のような文がある。
利右衛門甘藷(からいも)の功 利右衛門は、大山村岡児ヶ水浦の漁戸なり。土人の伝えに、宝永二年、乙酉(いつゆう)の年、甘藷を盎(おう)に植えて、琉球より携え帰る。これより甘藷漸(ようや)く諸方に溥(ひろ)まり、人民その利益を蒙るという。(以下略)」(※1)

その功を称えてか、“甘藷翁(カライモおんじょ)”と呼ばれたり、利右衛門さんの顕彰碑やら頌徳碑やらが指宿市内のみならず、鹿児島湾を挟んだ対岸の大隅半島にまでも存在するそうです。
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さらには、指宿市山川には“徳光神社(とっこうじんじゃ)”という利右衛門さんを祭神とする神社まであって、神様(玉蔓大御食持命:タマカヅラオオミケモチノミコト)として崇められているのだとか。



その徳光神社にある案内板では、利右衛門さんのことが以下のように紹介されているそうです。
    徳光神社
 ここは、鹿児島にサツマイモを広めた前田利右衛門を祭る神社です。
 利右衛門(~一七一九)は、ここ岡児ヶ水(おかちよがみず)の人で今から約三百年程前の宝永二年(一七〇五)に琉球今の沖縄に渡りました。この時、土地の人々が珍しいものを食べていましたので、その種を持ち帰りました。それがイモでした。
 イモのそもそもの原産地はアメリカですが、コロンブスがアメリカ大陸を発見(一四九二)したあと、このイモをヨーロッパに持ち帰りました。やがて、ヨーロッパ人が東洋に進出すると、そのイモもフィリピンから中国、そして琉球へと伝えられました。そのイモが山川にもたらされたのですが、中国を昔は「唐の国」と言ったので、山川の人々も「唐の国のイモカライモ」と呼んだのです。
 この「カライモ」は、山川の人々にとっては食料革命をおこすほどのものでした。と言うのは、この土地は、たび重なる開聞岳の爆発により、まったくの火山灰土壌になってしまい、アワ、ソバなどの雑穀しか出来なかったと言われています。また、ここは台風の常襲地帯であったので、そういう雑穀類も嵐のためにフイになることも少なくありませんでした。だから、火山灰に強く、台風にも強いこのカライモは山川の人々にとって、まさに心強い生命綱だったと言えます。実際、江戸時代には、幾度となく飢饉があり、全国的に多くの人々が亡くなってしまいましたが、ここでは、カライモのおかげで死なずにすみました。
 こうして、カライモはやがて薩摩藩~鹿児島県全体に広まり、ついに、時の政府江戸幕府も「これはいい」と全国に広めていくことになりました。この仕事をしたのが青木昆陽(一六九八~一七六五)です。この時に、イモが薩摩から出たので、もっぱら「サツマイモ」と呼ばれるようになりました。
 もっとも、イモの伝来には諸説があります。しかし、民間人が持ち帰ったと言うこと、そして、実際に栽培したということこの二点で利右衛門の右に出る人はいないと言っていいでしょう。
    平成十二年十二月二十二日
    山川町教育委員会
    山川町観光協会
    山川町岡児ヶ水区」(※2)
(上記引用文の冒頭では利右衛門さんのことが“前田利右衛門”と表記されておりますが、これはどうやら利右衛門さんの子孫が明治になってから前田姓を名乗ったことに因る表現のようです。)


ここで、残念なお知らせがございます。

これほどまでに鹿児島の人たちに称えられている利右衛門さんですが、実は一番最初に鹿児島へさつまいをもたらした人ではなかったみたいです。
このことについて、別の文献には以下のような記述がありました。
 その後1698年尚貞王は島津家の家老種子島久基に甘藷を贈った。これが薩摩における甘藷の初まりである。また1705年薩摩の農夫前田利右衛門が来沖し、甘藷数個を持ち帰って植えた。」(※3)

ではなぜ、利右衛門さんが甘藷翁として称えられているのでしょうか?
残念ながら、このことについて明確に記述している文献には出会うことができませんでした。
それどころか、上記(※1)の文献ではこれを判官贔屓ではないかと評しておりました。

 利右衛門が持ってきたイモは、三個とか数個とかいわれているが、鉢植えにして持って来たというから一個の可能性もある。それが、年を経ずして爆発的に藩内に拡散するのは、物理的にも不可能である。
 一七一〇年代に、藩全体に広がるには、種子島の一六九八年栽培の成功が必須条件である。
 利右衛門イモの流行の背景には、藩の農政担当家老の種子島久基の力が働いたとしか考えようがない。」(※4)
種子島久基ってのは、上記(※3)にあったとおり、利右衛門よりも先に鹿児島へさつまいもをもたらした人ですね。

『旧記雑録』追録三の正徳・享保年間の薩摩藩令には、種子島久基が数名の家老と共に、常に名を連ねている。しかも上位にある。農政家種子島久基が藩の家老として活躍した時期が、まさに甘藷が藩全体に拡散し普及したときであった。逆からいえば、久基をかいて、甘藷農政は成り立たないのである。
 しかし、庶民の食べ物のイモ、租税の対象にならないイモ、腐敗して蓄財の食品にもならないイモは、ついて藩に記録されることなく時が過ぎ、庶民サイドの利右衛門(利右(りよん))だけの名が残った。
 一浦人の利右衛門にしても、イモ普及に行脚したものでもなく、イモで財をなしたわけでもない。時代の寵児となるのも後世のことで、水夫のあとは漁師をしたようで、故郷の浦先で不幸にも死んでしまった。あとは判官贔屓で、やがて甘藷翁に昇華していった。」(※5)


判官贔屓(「源義経を薄命な英雄として愛惜し同情すること。転じて、弱者に対する第三者の同情や贔屓」(※6))でもいいじゃないですか!
為政者側の種子島久基が称えられるようになることよりも、むしろ自分たちと同じ身分や境遇にあった利右衛門さんのことを、さつまいもをもたらして飢饉から救ってくれた恩人として民百姓たちが自発的に崇拝するようになったことのほうが、よっぽど人間臭くて健全じゃあ~りませんか。

それに、お上のおエライさんである種子島久基とちがって、利右衛門さんは民百姓の一員としてその社会の中で共に暮らしていたわけですよね。
これは完全に私の勝手な想像ですが、山川の民百姓たちが利右衛門さんの恩をその死後も忘れることなく、しかも甘藷翁として称えるようになったのは、利右衛門さんが自分たちの仲間であったが故ではないでしょうか?。
そしてその神格化は、もしかしたら山川の民百姓たちが利右衛門さんに対する感謝の気持ちを表現するための最上級の手法だったのかもしれませんね。


私が今こうして芋焼酎をいただくことができるのも、ひとえに甘藷翁である利右衛門さんのおかげであると深く感謝しつつ、その利右衛門さんの名を銘にいただくこの焼酎をそろそろいただいてみたいと思います。



まずは、生(き)、すなわちストレートでちょっとだけ。
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アルコール香はありますが、それほど目立ちません。
芋っぽい風味があって、重くはないもののふっくらしています。
香りには角や華やかさがなくて、穏やかです。
甘味がちょっとはっきりしているようです。
苦味や雑味はありません。


次に、お湯割りで。
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軽い苦味がちょっとだけ出るようです。
それに酸味も出てきて、それが少し鋭くて、しかもちょっとしょっぱいような感じもあるみたいです。
でも、その軽い苦味と酸味とが、ふっくらした芋っぽい風味とよく合っているようです。
一方で、甘みは引くみたいです。


最後に、残りをロックで。
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ロックにすると、苦味に重みが出てくるようです。
酸味は残る一方で、芋っぽい風味と甘味とはちょっと後退するみたいです。
苦味と酸味とで、かなり引き締まった感じがいたしました。



芋っぽい風味と甘味とを楽しみたければ、生(き)で。
キリッと引き締まった口当たりがお好きならばロックで。
そして、酸味や苦味と芋っぽさの調和を味わうならば、お湯割りで。
私としては、複雑な味わいが楽しめるお湯割りが好みではありましたが、生(き)でふっくらした芋っぽい風味を楽しんだり、ロックの引き締まった味わいもなかなかいけるのではないかと感じました。

飲み方によって味わいが変化する、おもしろい芋焼酎でした。
たった200mlの芋焼酎でしたが、いろいろな味わいを楽しませていただいたことを利右衛門さんに感謝したいと思います。

(※1)山田尚二『かごしま文庫(19) さつまいも』p.121(1994.11 春苑堂出版)
(※2)大本幸子『いも焼酎の人びと』p.50-51より(2001.10 世界文化社)
(※3)豊田清修『サツマイモ伝来の経路』p.281(医学と生物学 112巻6号 p.281-283 1986.6 緒方医学化学研究所医学生物学速報会)
(※4)(※1)p.203
(※5)(※1)p.203-204
(※6)広辞苑 第五版(電子辞書)
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あ~酒臭かった! 27

酒くさコメント 2

タンタン

さつまいも伝来の経緯、興味深く読ませて戴きました。
この場合、誰が先にどうこうと言うのは抜きでいいでしょう。
芋を鹿児島で普及させたのは別の方やとしても、一般人が沖縄に渡った際に、目を付け持ち帰ったというのがいいと思いました。
by タンタン (2017-11-19 07:09) 

skekhtehuacso

タンタンさん、おっしゃるとおりかと思います。
一般人が持ち帰ったことは事実のようで、しかもその人が民によって神格化されているということは、さつまいもはお上によって普及されたのではなく、民の間で自発的に広まったのではないかと想像できると思います。
そのことについて記録が残っていないのは、民が暮らしのために自発的・日常的にやっていたことだったことから、いちいち記録するという発想自体がなかったのでしょう。
by skekhtehuacso (2017-11-19 20:16) 

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