東京都内での焼酎集め(もちろん日帰り!) [旅]
今回は、
東京都内を徘徊してまいりました。
私が住んでいる千葉県と東京都とは、
隣接する位置関係にございます。
それ故、
宿泊する必要はなかろうと判断し、
日帰りで出かけてまいりました。
なお、今回は、
焼酎の収集を主目的として出かけました。
実は、東京都内には。
「本邦における甘藷の終着駅」(※1)
にして、かつ、
「本邦における芋焼酎の終着駅」(※2)
と評される場所があるのです。
でもでもでも!
天気予報には傘マーク!
しかも降水確率は“半か丁か!”の50%。
果たして酔っぱらいは、
雨に降られることなく徘徊できるのか?
徘徊の成果たるや如何に?
どうぞ、お楽しみくださいな。
★☆2023年7月22日(土)★☆
朝の5時前。
自宅の近所にあるバス停より、
バスに乗車。
羽田空港第2ターミナルにて下車。
けっこう人多いね。
ここ羽田空港から私が向かうのは、
八畳間。
じゃなくて、
八丈島
八丈島は、もちろん東京都(東京都八丈町)。
東京都区部からおよそ300kmの位置にあります。
船だと10時間ほどかかりますが、飛行機だとたったの55分。
飛行機は朝・昼・夕方の3往復あるので、日帰りも可能なのです。
羽田空港からは、
八丈島行のANA1891便に搭乗。
運賃はLCCの2倍くらいもするのに、
座席はLCCと大して変わらないクオリティ。
他社との競合がない路線であるが故の殿様商売?
飛びます!、飛びます!(坂上二郎さんより)
いいえ、もう飛んでいます。
あたしゃ飛行機に乗って雲の上に出ると、
一生涯で無二の大親友だったごんちゃんがどこかにいるんじゃないかと探してしまうのが癖なのでした。
でも写真を携帯電話の待ち受け画面にしているので、
ごんちゃんといつも一緒に行動しているつもりです。
八丈小島。
今は無人島ですが、かつて島の南半分を村域とした宇津木村には町村総会(町村議会の代わりに設置できる、町村民全員が参加して議決する機関:地方自治法94条)があって、今日においてもこれが現行憲法下では唯一の設置例であるそうですよ。
八丈小島が見えると、
そこはもう、八丈島。
時刻は8:40。
羽田での荷物積込遅延の影響で、15分遅れの到着でした。
八丈島は、二つの火山がつながった、ひょうたん型。
そのつなぎ目になる辺りに、街が形成されています。
今回は、この市街地を徘徊してみたのでした。
それにしても、
いい天気!
風が気持ちいい!
街路樹がハイビスカスなところが、南の島っぽいね。
でもいいですか、皆さん!
あくまでも、ここは東京都ですからね。
空港の滑走路の下をくぐるトンネル。
その入口で、
クワガタ(コクワガタ?)を発見。
トンネル内で、
“ハッ!”
と奇声を出して響きを楽しんだりして(おきなわフチ歩きより)。
植物公園入口を、
植物公園に入らずに通過。
植物公園沿いの道を歩いていくと、
コンクリート製の遺構を発見。
これは、
太平洋戦争(大東亜戦争)中に設置された。
トーチカ(防御陣地)の跡なのだとか。
文献に、八丈島では「戦争末期には二万近い陸海軍人が駐屯して、着々と決戦準備を進めていた。」(※3)とありました。
2万人って、今の八丈町の人口(令和2年:7,042人)の3倍に近い数ですよ。
八丈島は本土との距離が近く、また当時から空港がありました。
それ故、米軍が本土空襲の拠点とすべく占領しようとする可能性が高いと、帝国陸海軍は判断したのでしょう。
ですが文献には、以下の記述もありました。
「八丈島は幸いに、敵軍上陸という最悪の事態を免れた」(※3)
「サイパン・テニアン・グアムを基地とするB29爆撃機が、日本本土に対する本格的な空襲を開始したのは、昭和一九年一一月二四日からであるが、八丈島民はこの日早くも爆撃行を目撃している(本土爆撃へ来襲するB29は、その殆どが八丈上空に達すると、後は駿河の富士を目印にして目的地へ向かったとのことである)。」(※4)と書かれておりました。
要するに、幸いなことに、
八丈島は、米軍による上陸作戦や空襲の標的にはならなかったのだそうです。
このことについては、文献には、
“米軍が八丈島を意図的に避けた”
という記載がありました。
「アメリカ軍は、硫黄島攻略戦の障害になりそうな、本土沿岸の各飛行場を叩こうと企図し、本土東方沖の機動部隊から、二月一六日、各地飛行場を襲撃したが、その一部が、八丈攻撃隊だった。
(中略)
終戦直後私は、戦犯容疑で明治ビルに呼び出され、当時の事情を執拗に調べられたので、余りの不審さに訊ねたところ、当日の八丈攻撃隊は全機墜落して生存飛行士がなく、疑惑を抱いた米軍は、その後八丈を回避するようになったという経緯を私は初めて知りました。」(※5)
2万人もの日本の軍隊が駐屯した一方で、
島民は島から強制的に疎開させられた
のだとか。
「日本政府は、昭和一八年一二月二一日の閣議で、都市疎開の実施要項を決定したが、その中に「状況により必要と認める都市に、疎開の勧奨を行う」との条項がある。一九年七月七日にサイパンが玉砕し、八丈島にも何時、米軍が上陸するかも知れないという事態になって来たので、恐らく上記条項を適用したのであろう、警備隊司令官子安和夫大佐は、七月一〇日各村に疎開要領を通達した。この日の樫立村役場日誌には、「疎開問題ニ依リ一大風雲ヲ告グ、村内大混乱ニ陥リ多忙ヲ極ム」と記されているので、この日から島の疎開騒動は始まったと思われる。」(※6)とあり、「こうして疎開した者の総数は、五八五三名(島民の七〇パーセント)に達している」(※7)。
島民の70%もが島から追い出され、
そこへ2万人もの軍隊が派兵され駐屯したならば、
島全体が要塞化することは容易に想像し得ますね。
それ故に、太平洋戦争(大東亜戦争)の敗戦から80年近くも経た今日においても、八丈島ではこのような軍事施設の痕跡を各所で少なからず見つけることができるのだそうです。
さらに歩いていると、
オオタニワタリ(大型のシダ植物)。
南国っぽいね!
神社を発見。
あたしゃ旅で最初に出会った神社やお寺には、参拝することにしておりますよ。
社号はどこにも記されておらず、
わかりませんでした。
お賽銭は、石の上に置くシステム。
(5円ぽっちって、ドケチだな!)
二礼二拍手一礼。
楽しい旅になりますように。
参道の脇にて、八丈島らしい植物を発見!
これ、アシタバ(明日葉)ですよね。
玉石垣を発見。
この玉石は、海岸から運ばれて来たものとのこと。
裏を取ってはいないので真偽は定かではございませんが、
“かつて島流しにされた罪人が海岸から運び、一個運ぶとおにぎり1個がもらえた。”
との逸話ありとのこと。
六方積み(1つの石を中心として6個の石で囲む積み方)なんだってさ。
馬路バス停まで歩いてまいりました。
ここからは、
通りから一本入ったところへ、
“通行止”とありました。
しかし工事を管理する東京都八丈支庁土木課にあらかじめ問い合わせたところ、
「見学目的で、かつ徒歩であれば通行可。」とのご回答を頂戴いたしました。
それ故、とある石碑を見学すべく、
徒歩で入っていったのですが・・・・・・・・・、
雨が降って来やがった!
しかもかなりの豪雨!
さっきまではあんなに晴れていたのに。
豪雨の中を歩いて、
目的地までなんとかたどり着きました。
これは、
「八丈島甘藷由来碑」、あるいは
「八丈島甘藷渡来碑」
八丈島にサツマイモをもたらした菊池さん親子を顕彰するこの甘藷由来碑。
碑文はかなり読みにくくなっておりました。
文献の記載を引用して、
碑文に書かれている文字を紹介いたします。
「文化八辛未年(1811)四月新島ヨリ赤持参サツマ種初作
六代目 菊地秀右衛門
文政五壬午年(1822)四月右同断ハンス種
七代目 菊地小源太
慶応己辰三月 建立 八代目 同右馬之助」(※8)
(西暦はブログ筆者追記。なお“菊地”は文献のまま掲載)
サツマイモが最初に八丈島にもたらされたのは、「世に所謂「享保の御改革」が仰せ出された徳川八代将軍吉宗の治世下、一七二三(享保八)年であった。」(※9)が、「栽培方法の不慣れから、「公命御厚情之御仁恵」を以て下賜されたものすべてが失われ、せっかくの努力も水泡に帰してしまった。」(※9)のだとか。
すなわち、「始めて八丈島に甘藷種子がもたらされてから約一世紀の間は、八丈島の甘藷史における黎明期ともいうべき期間であった。従って、甘藷は未だ島を挙げて全面的な栽培は見られず、扶食として或いは救荒作物としての地位を確保するまでにはいたらなかった。」(※10)とのこと。
なお、当時の八丈島は土地が痩せていた上に災害も多く、米などの穀類を栽培するには難しい土地だったそうです。
このことについて、以下のような記述がありました。
「 黒味を帯びた玄武岩と安山岩を母体とした火成岩上に、火山灰や噴出物でおおわれた島、その限られた地形をきり拓いて作られた僅かな田畑に、生の凡てを賭けなければならなかった島の生活は、暴風雨旱魃噴火或いは虫鼠害によって執拗に繰り返えされた飢饉と、それに直結する餓死と、常に真正面から対決しなければならなかった。しかも、本土からの救助の手段が考えられない往古にあっては、如何なる災害に対しても島は島だけの自活が強いられた。こうして、幾度も生死の境まで追いつめられながら生き抜いた島人の生活記録を、島の古文書は伝えている。」(※11)
しかしその後、上記甘藷由来碑(渡来碑)にある通り、
享保期とは異なった品種(赤サツマ種(1811年)・ハンス種(1822年))がもたらされてからは、それが八丈島のみならず八丈小島や青ヶ島にまでも広く普及し、飢饉から人々を救ったのみならず、島の人口増加にも寄与したのだとか。
「 八丈島甘藷史における後期の黎明は、こうして迎えられた。島へ渡った甘藷の新品種は、大賀郷の菊地秀右衛門父子、三根村の高橋与野右衛門、樫立村の宇兵衛等の肝入りで漸々に島の土質に馴らされた。その中でも「赤サツマ」・「ハンス」等新品種の普及は比較的速く、一八一一年(文化八)から文化期(文政期の誤りか?:ブログ筆者追記)(一八一八-三三)末ころまでには、もうすでに八丈島は勿論属島の小島・青ヶ島にも行き渡った「八丈実記拠」巻二五に、
「始メハ土地ニ相応セズ、天保ノナカバヨリヤウヤク地味ニ合シテ、八丈小島青ヶ島マデ農家各々数百俵ノ美味ヲ収納シ・・・・・・」
云々とあるはかかる意である。」(※12)
「 また、甘藷の普及化に伴って、島の人口は急速に増加していった。(中略)一八四〇年(天保一一)の島内人口は、この間天保の大飢饉で餓死八〇〇名を出したにも拘らず、三分の二世紀の間に一七七四年(安永三)の人口の約一・四倍に達し、さらに二〇年後の一八六〇(万延元)には安永期の一・八倍、天保期の一・三倍の増加を示した。一八世紀後半期以降の、このような人口の激増振りは、少くともその原因の一つは、新品種の甘藷栽培を挙げるべきであろう。」(※13)
その甘藷由来碑があるあたりは、
墓地になっておりました。
菊池姓が多いみたい。
みなさんご子孫の方々なのでしょうか?
雨がどんどんひどくなってきやがったので、退散。
どしゃ降りだなこりゃ!
こんな豪雨に出くわすのは、4年前の人吉以来ですよ。
(神社で賽銭をケチったバチだな。)
スーパーへ避難し、
八丈島の地焼酎をGET!
八丈島の焼酎については、この後言及いたします。
そのスーパーの正面にあったいそざきさんは、
かつて磯崎酒造として焼酎を製造していた蔵元さんだったそうです。
“黄八丈”の手印は、坂下酒造さんが引継いでいらっしゃいます。
女将さん、いい話を聞かせていただいてありがとうございました!
そのいそざきさんで、
明日葉茶をGET!
青みが穏やかでソフトな口当たりでした。
ええ~!?(←マスオさんより)
あんなに降っていたのに、
もうカンカン照り!
いやがらせかよ!
カンカン照りの中を歩いて、
宇喜多秀家の住居跡へ。
宇喜多秀家は、安土桃山時代の武将
豊臣政権下では岡山城主として50数万石を拝領した大大名であり、同政権の末期に設けられた合議制では五大老の一人として補せられた、秀吉の信任厚かった人。
しかし、秀吉没後の関ケ原の戦い(慶長5年:1600年)では西軍(反徳川軍)の主力として奮戦するも敗北。
とまあ、ここまでが、学校で日本史を勉強したことがある人だったら知っている一般的なことでしょう。
その宇喜多秀家さん、
関ケ原で負けた後、同じ西軍であった島津家を頼って薩摩へ逃亡したんだってさ。
しかしその後、幕府に捕縛され、死罪は免れたものの、
「同11(1606)年4月、八丈島初の流人」(※14)になったとのこと。
時代劇でよく、“八丈島への島流し”って聞くけれど、
最初の流人は宇喜多秀家さんだったんだね。
しかも八丈島まで行くのがこれまた大変で、「幕府御用船で伊豆網代から出港したが、すぐに下田で風待ち。さらに大島、新島などに寄港後、八丈島まで4カ月もかかってやっとたどり着いた。」(※14)んだってさ。
住居跡の入口には、お手植えのソテツがありました。
こちらが、住居跡。
島での暮らしは決して楽なものではなく、当初は他の島民と同様に貧しい暮らしをしていたそうです。
しかし、「生き別れになった妻・豪の実家加賀藩が窮状を知り、幕府に願い出て同14(1609)年から1年おきにコメ70俵、金子35両のほか衣類・薬・日用品などを送り始めたことから、困窮の生活は脱却できた。」(※15)のだそうです。
でも秀家さん、決してそれを独り占めすることはなく、
「食糧は関係者の日常を十分賄い、余分は地元民にも提供。加賀藩派遣の医者は島に残り、医院を開き島民も診察した。島民との親睦、融和は進んだ。」(※16)のだとか。
宇喜多秀家さんのお墓もあるんだってさ。
アドベンチャー感満載の細い道を通って、
本日2回目の墓地訪問。
その一角に、
宇喜多秀家さんのお墓がありました。
宇喜多秀家さんは、「八丈島に流された時は33歳。以後83歳で死去するまでの50年間、」(※16)をここ八丈島で過ごしたのだとか。
当時としては長寿だったのでしょう。
その宇喜多さんの生き方について、文献には、「「天道に恥じる卑劣なことをしなかった」と矜持を持って悠々自適の生活を送ったと思われる。」(※16)と書かれておりました。
この、“天道に恥じる卑劣なことをしなかった”との矜持について、それを伝える史料は複数存在し、その研究は進んでいるようです。
かつて八丈島で開催された講演会で、人見彰彦氏(岡山県郷土文化財団元参事)という御仁が『久福様御遺訓』(宇喜多秀家の言葉を書き記したもの:金沢市玉川図書館蔵)について、その考え方の根底を以下のように紹介したそうです。
判官贔屓でへそ曲がりのワタクシは、この一節に心惹かれてしまいました。
「八丈島に配流後しばらくして、幕府が秀家に特赦を出そうとしたが、「自分は人道に叛くような罪悪をしていないから、“許す”という考えは筋違いだ。秀吉公の死の直前、枕頭で秀頼様を後継者とする誓約書に5人の大名が互いに血判を押したが、それを破ったのは家康だ」との考えがその根底にあったと人見氏は解説した。」(※17)
宇喜多秀家さん、かっこいいじゃないですか!
大河ドラマや時代劇映画などでは、まだ主役級の扱いを受けてはいないみたいですね。
(オイラが知らないだけ?)
もし『宇喜多秀家物語』が制作されたら、けっこうおもしろくなるんじゃないの?
お父さん(宇喜多直家)はかなりの策略家だったそうですが、それとの対比で真面目な二枚目でやってもらいたいな。
例えば、
お父さんが遠藤太津朗で、
宇喜多秀家さんは竹脇無我で、
みたいな感じで。
(古っ!)
その竹脇無我、じゃなくて、
宇喜多秀家さんの墓前にひざまづいて、合掌。
湯呑には、宇喜多さんの家紋がありました。
関ケ原の場面では、合戦の開始直後によく見る西軍先鋒隊の旗印としておなじみですね。
なお、この墓地には、
宇喜多ならぬ“浮田”さんが多いみたい。
「明治2(1869)年、宇喜多家の子孫すべて(20数家族になっていた)が本土に帰ることを許された」(※18)そうですが、
もしかしたら八丈島に残った人もいたのかな?
そして何らかの事情により、姓を宇喜多から浮田へ変更なさったのかもしれませんね。
いやー、
歴史って、
本当におもしろいですね。
ところ変わって、
護神山へ。
ここには、神様のマンションがあるみたい。
こんなにいらっしゃると、どの神様にお願いするか迷うんじゃないの?
「とんでもねえ、あたしゃ神様だよ!」(ドリフの神様コントより)
私はそれよりも、その隣にある、
“島酒之碑”がお目当てだったのでした。
草ボーボー!
これが、島酒之碑です。
“島酒之碑”は
「昭和42年8月28~30日,八丈島で第1回流人祭が催されたのを機に、大賀郷護神山に建てられた」(※19)もの。
「かつて焼酎造りに使われた径1.5mの大甕で、その周りを72L容の小甕が取り巻いている。」(※19)のだとか。
裏面には、建立の由来が書かれているのだそうです。
しかしそれを見に行くためには、
ボーボーの草をかき分けて行かねばなりませぬ。
はい、
こちらがその建立の由来。
わかりにくいでしょうから、文献の記載を引用します。
「島酒之碑
丹宗庄右衛門翁ハ薩州出水郡阿久根村ノ産デ嘉永六年密貿易ノ罪ニヨリ八丈島ニ流サレ明治元年ノ赦免マデ諦居スルコト十五年初メテ八丈島ニ焼酎ノ製法ヲ伝エタ
此ノ島酒タルヤ真ニ芳醇一酌忽チ胸襟ヲ洗ツテ陶然万累ヲ忘レマサニ酎界ノ王者デアル
茲ニ碑ヲ建テテ翁ノ徳ヲ頌シ天ノ美禄ヲ酔郷ノ寶ト共ニ礼賛スル
昭和四十二年八月二十八日
八丈島観光協会
八丈島酒造組合 建 之」(※19)
嘉永六年(1853年)と言えば、
ペリーが黒船に乗ってやってきた年ですよ。
関根勤さんの説によれば、
もち肌のペリーは、静かな口調で
「国ヲ開ケナサ~イ!」と日本語で言ったとのこと。
その同年に、
抜け荷(密貿易)の罪で八丈島へ流罪となった、
薩摩阿久根ご出身の丹宗庄右衛門さん。
「ただ一介の貿易商人ではなく、恐らく苗字帯刀を許された家柄であったことが推定され」(※20)、かつ、
「彼の生家が代々焼酎製造を業としていた」(※20)のだとか。
それ故、
故郷でなじみが深いサツマイモが八丈島で広く栽培されていることを知って、
“芋焼酎を造ろう!”
と思ったことは容易に想像できますね。
ですがここで、一つ問題があったのでした。
それは、
当時の八丈島では、酒造禁止令が発せられていたこと。
その理由は、八丈島甘藷由来碑を紹介した部分で述べたとおり、八丈島は土地が痩せていた上に災害も多く、穀類を栽培するには難しい土地だったことからでした。
また当時の八丈島で酒と言えば、古くから伝わる濁酒であって、
清酒を造る技術は存在しなかったのだとか。
濁酒のほうが清酒よりも歩留りが悪い(同じ量の穀物を原料としても、濁酒の方が清酒より製品量が少ない)でしょうから、それこそ穀物の無駄遣いになるわけですね。
それ故、清酒を製造する技術がなかったことも、酒造禁止令の一因となったのでしょう。
文献では、このことについて以下のように解説しておりました。
「以上この孤島の生活の不可離の関係にあった飢餓史から、流人を含めた島の人々が、安易な気持ちから濁酒を醸造したり、また単なる嗜好から常に濁酒を飲むには程遠い距りがあったと想像されないだろうか。いい換えれば、頻発する飢餓を常に意識しつつ乏しい食生活を強いられた八丈島では、米であろうと、麦であろうと、また、粟や黍であろうと、これら穀類から濁酒を製造することは、次の飢餓時にはそれだけ餓死線に近付くことを意味していたので、濁酒造りは必然的に制約され、自粛せざるを得なかった。(中略)かく按じくれば前章で考証した八丈島における濁酒造りは、古昔から伝承された方法をずっと上廻るほど進歩していたとは考えられない。」(※21)
そんな時代に、八丈島へ流罪となって、サツマイモで芋焼酎を造ることを思いついた丹宗庄右衛門さん。
しかしサツマイモで芋焼酎を造ることも、酒造禁止令に反する惧れがまったくないわけではありません。
そこで丹宗庄右衛門さん、「一番やっかいな役人にも念を押しておく必要があるので,伺いをたててみると,穀類を使わずに酒ができるものなら造ってもかまいいはせぬと,突き放したような返事が返ってきた。」(※22)のだとか。
要するに、芋焼酎の知識のかけらもない木っ端役人共に、
やれるものならやってみろ!
って言われたってことでしょう。
こうして丹宗庄右衛門さん、サツマイモを使って芋焼酎を造ったところ「それはまずよく砂を通して清水のように澄んでいる。次にはその度が極めて高く(25%)飲み口がすがすがしい。最後に原料が禁酒令に違反しない薩摩芋で,しかも量産が可能である。島民は競って庄右衛門に製法の手ほどきを請い,焼酎はあっという間に八丈島を席捲し,万木凋落の寂しい陰をおとしていた八丈島が,百花繚乱の明るさを取り戻した。そして,当然のことのように,この天の美禄を八丈島にもたらした庄右衛門は,神様並みの尊崇を受けた。」(※22)とのこと。
ここまでの話をまとめると、
1723(享保8)年
幕府からサツマイモが下賜されるも栽培できずにおしまい。
1811(文化8)年・1822(文政5)年
菊地さんがサツマイモの新品種(赤サツマ・ハンス)を伝えて普及し、飢饉を救った。
1853(嘉永6)年
島流しにされた丹宗庄右衛門さんが芋焼酎の製法を伝え、普及した。
ってことですね。
めでたし、めでたし!
なお、2点について付言。
まずは麹について。
鹿児島県や宮崎県では、芋焼酎を仕込む際に、麹は米麹を用いることが一般的です。
一方で八丈島では、麹はカブト麦を搗いたもの(チクリン)を用いたのだとか。
これも、「凶作飢饉を常に意識して自活しなければならなかった島方では,むしろ当然のことであった。また甘藷が流布し触事情が好転した天保期(1830-1844)以降でも,米だけは備畜食料第一といった気持は島人共通のものであった。」(※23)ためだったそうです。
次に、原料の変化について。
これまでに記してきたとおり、八丈島の焼酎といえば、幕末よりずっと芋焼酎でした。
ところが最近では、芋焼酎よりも麦焼酎のほうが生産が増えているのだとか。
このことについて、文献の記述を2点紹介して、この話を終えたいと思います。
「現在、島内に製造場は五ヵ所。(2004年当時;2023年現在は四ヵ所:ブログ筆者追記)さつまいもの栽培がすたれ、いも焼酎より麦焼酎が主体となっているが、それぞれに個性を競っている。」(※24)
「 八丈でとれる唐芋(かんも)「赤てるこ」、「白てるこ」は内地の甘藷より良質で、焼酎造りに適している。ただ悩みの種は本土から米穀が支障なく供給されている現在、甘藷栽培の必要性がうすれ、その生産が年々減少していることである。今では焼酎の原料として甘藷は麦よりも高くつく。原料の処理も泥のついた傷みやすい甘藷より、即席で使える押麦や精麦の方がはるかに手間がかからない。これまでも八丈の焼酎は押麦の?を使っていたこともあり、最近では原料の大麦への全面転換も考えられているときく。しかし幕末以来つづいた東京都の薩摩焼酎百年の歴史を書きあらためることがよいかどうか、十分考える余地があろう。」(※25)
あ、そうそう!
島酒之碑の隣には、魚之碑がありましたとさ。
さらに歩いて、
とある酒屋さんで、新島の麦焼酎をGET!
新島の焼酎に関しても、調べ甲斐がありそうな予感がいたします。
このあと、
川沿いの道を東へ歩いて行ったのでした。
にゃんこ発見!
でも、遊んでくれなかったのでした(トホホ・・・)。
さらに川沿いを歩いて、
いったん川から離れて、
坂を下りて、
クワズイモだ!
自生しているのかな?
デカいね!
花屋で売っている観葉植物とは迫力がちがうね。
河口付近で、再び川と合流。
その合流地点の近くにあるこの洞窟が、目的地。
ここには、旧帝国海軍の
特攻兵器「回天」の基地
があったのだとか。
回天とはどのような特攻兵器だったのか。
それは、以下の記述が伝えてくれております。
「 日本の敗色が濃くなった二〇年五月三一日、特攻隊員の八人の将兵たちと人間魚雷「回天」が八丈島に配備された。
日本海軍の秘密特攻兵器「回天」とは、特攻隊員の体当たり攻撃によって敵艦を沈め、不利な戦局を有利に転換する、いわゆる起死回生を図るという意味から名付けられたものである。
(中略)
回天の原型となったのは海軍の九三式魚雷で、当時としては世界でも第一級の性能をもっていた。これを一人乗りの小型潜水艦に改造し、体当たり攻撃を行うようにした特攻兵器であった。」(※26)
魚雷は、駆逐艦などの小型艦船や飛行機(攻撃機)から水面下へ向けて発射され、敵の船の喫水線下(水面下)に当てて船体に穴を開け、その船を沈没させる兵器です。
潜水艦も魚雷を装備していましたが、その場合はもちろん海の中で発射されます。
回天は、その魚雷に運転席と潜望鏡とを付け、人間が乗って運転し、敵の船に体当たりして自爆するように設計された特攻兵器だったのです。
回天は魚雷から改造された兵器であることから、本来は潜水艦で敵艦の近くまで運び、海中で発射されるように設計されていたそうです。
しかし戦局が悪化するにつれて「母体である潜水艦の消耗が余りにも激しかったので、」(※27)陸上から出撃するための基地が整備されていったのだとか。
その基地の様子について、文献には以下のような記述がありました。
「 件の陣地の近くに既に相当大きな洞窟が掘ってある。中に入ると海中にレールが伸び、その脇に所謂人間魚雷が何基か黒光りする胴体を並べていた。もっと奥に収納しないと、上陸前の砲爆撃で発進前に潰される可能性があるという。小さな潜望鏡のついた塔に、菊水の紋が印象的だった」(※28)
しかし、
ここから回天が出撃したことは一度もなく、
それどころか、
洋上で訓練したことすらなかったのだそうです。
「 八丈島の基地は末吉の「石積」と、三根の「底土」の二ヶ所(中略)であるが、回天の出撃用酸素は、一回分しか渡されていなかったので、八丈島での訓練は出来なかったとのことである。」(※29)
「 設営隊は両基地とも、壕内から水際までレールを敷いてくれていたが、回天隊にはその連絡がなかったので、車輪付の回天台車は島へ持参しなかった。そこで、レールの上に厚板を乗せ、その上に径20センチのチーク材を並べ、そして台車を滑らせる方法を考え、とりあえず車輪のない台車(架台)のまま壕内に格納したが、あとで車輪付き台車の供給を受け、壕内で吊り上げ交換をした。
こうして移動が容易になったので、回天の入れ替えと平地のレール上を搬出する訓練は何度か行ったが、洋上訓練には至らなかった。
それは回天が一度洋上に出て帰投すると、その都度、分解組み立てをしなければならないが、島にはその施設がなかったからである。」(※30)
命を賭けた特攻を、事前の洋上訓練なくしてたった一回のチャンスで成功させろだなんて、お粗末にも程がありますね。
それにもともと潜水艦で敵艦の近くまで運んで発射するように設計されていた兵器を、敵艦から遠く離れた陸上の基地から出撃させることにも無理があります。
到底うまくいくはずがないことは、たとえ当時の人であっても冷静に考えればわかったはずですよ。
さらに文献には、以下の恐ろしい記述がありました。
「しばらくして訓練が終り、暗幕を開けて講評となったが、立ち上がって整列した隊員を見て私は吃驚した。何と十六、七の可愛い少年達ばかりではないか。途端に私は大声で叫びたい程の衝撃を受けた。涙がパアツと溢れ出して止まらなくなってしまった。」(※28)
実戦経験のない16-17歳の少年たちに、一度の洋上訓練もすることなく特攻させるなんて。
彼らには、特攻を成功させるために必要な技術も能力も精神力も、到底備わっているとは思えません。
もちろん、
現場で訓練を受けていた少年たちや、彼らを指導していた教官は、みな純粋に報国の責任を全うしようと必死だったことでしょう。
そんな先人たちの努力と真心とには、心の底から頭が下がります。
でも、少年たちにそんな無理なことをさせるように決めたり、あるいは特攻を立案したり、もっと言えば国力の差が歴然たるアメリカとの戦争を決めたりした軍統帥部のお偉方は、どうかしていたんじゃないかな。
ワタクシが少ない知識を基にして考えても、
日本は、少なくとも政府は、互いの腹の内はともかく、アメリカとはうまくやっていた歴史があったはずだったのに・・・。
桂・タフト協定や石井・ランシング協定然り、あるいは日露戦争の講和仲介を頼んだり、
ワシントン条約やロンドン条約を締結して、海軍軍備の均衡で協調していたり。
さらには、日本にアヘンが蔓延しなかったのは、アメリカが日米修好通商条約の4条にアヘンの持ち込み禁止を入れてくれたおかげだという意見もあるみたい。
こんな明らかにおかしいことであっても、
“報国のため”と正当化されてしまう戦争は、
絶対に、二度と起こしてはいけませんね。
同じ報国でも、あたしゃ、
“愛酒報国”
を貫きますよ。
そんな少年兵たちが、どんな気持ちでここで訓練したのか?
少しでもわかりたいと思い、洞窟の中へ少しだけ入って、海のほうを臨んでみました。
洞窟からいったん川へ出て、
そこから洋上へ出撃する予定だったのですね。
洞窟の入口でふと足元を見ると、
腐食したレールを発見。
回天を運搬するために敷かれていたものでしょうか?
たとえ80年近い年月を経て腐食し続けたとしても、
細いレールだこと!
もしかしたら、戦争中の資材不足がこんなところにも現れていたのでしょうか?
底土港の展望台に上がって、
太平洋を望む。
北側には、八丈富士。
北側の海岸は、にぎやか。
たくさんの海水浴客が楽しんでおられました。
海水浴を楽しめるのも、平和であるからこそですね。
南側には、三原山。
この南側の海は、
もし回天が出撃していたら、少年兵たちが最初に出たはずの海。
北側のにぎやかさとは対称的に、とても静かでした。
海から離れて、島の中心へと折り返したワタクシ。
アシタバがそこら中に自生していましたよ。
途中で立ち寄った土産物店で、
八丈島の地焼酎300ml瓶をGET!
ちょうどお昼となりました。
腹が減ったので、
お目当ての“蓮華”さんへ。
八丈島について調べていた際にご店主のYoutube CH.を見つけ、ぜひともうかがいたかったのでした。
まずは生ビール!
実はこれ、この日の一杯目。
ビールをさっさと開けて、芋情け嶋の水割りへ移行。
上立ち香は香ばしい穀物香。含むと華やかな芋の風味に、麦の香ばしさを伴う。
うまいなあ!
そしてワタクシが注文したのは、
辛しお焼きそば。
“辛”なのに赤くないのは、八丈島産の青唐辛子を使用しているから。
たしかに辛い、ピリピリ来る。
でも後を引かずスッと引いて、爽やかな辛さ!
これはおいしいわ!
スープも付いとるでよ。
おいしい辛しお焼きそばに、
芋情け嶋がバッチリ!
あー、おいしかった!
蓮華さん、心の底からおススメです!
お腹も心も満たされた酔っぱらい。
炎天下をさらに歩いて行ったのでした。
街路樹のハイビスカスは赤でしたが、
とあるお宅のお庭には、黄色もありましたよ。
八丈島での徘徊も、そろそろおしまい。
八丈島空港まで戻ってまいりました。
空港内の土産物店を物色。
あたしゃねぇ、
八丈島へ来る前には、
“焼酎の小瓶のセット商品があるかもしれない”
と期待しておりました。
例えば↓こういうやつ
でも、
八丈島にはそれがなかったのでした。
それぞれの地域でお決めになることでしょうから、文句は言えません罠。
一方で、
青酎(青ヶ島産の焼酎)「池の沢」の300ml瓶を見つけてGET!
青酎は、青ヶ島へ行くまでは買わないつもりでした。
ですがここ八丈島で300ml瓶を見つけ、ついつい手を出してしまいました。
これはきっと神様の「いつか青ヶ島へ行く日のために予習しておけ」とのお告げなのかも。
それとも「八丈島でも青酎を入手できるのだから、再度八丈島に来て青酎のみならず八丈島の焼酎も買っていけ!」ということなのかな?
そう思うほど、八丈島、再度訪問したいほどでした。
飛行機の搭乗開始時刻まで間があったので、
空港内のレストランで、八丈島との別れの一献。
滑走路が見える窓側の席に座りました。
明日葉エール。
やさしい青みがおいしいね!
枝豆とポテトフライ。
どちらも600円とお高めだと思ったものの、2人前くらいでさもありなん。
そして最後の焼酎は、
情け嶋の麦。
甘くて、雑味ゼロで飲みやすい。
それなのに麦の風味しっかりで香ばしく、飲みごたえあり!
これもおいしい!
飛行機に乗るお時間がやってまいりました。
17:25発ANA1896便に乗って帰ったとさ、
以上、
千葉県から東京都への日帰り旅行でした。
今回は、あらかじめ文献を取り寄せて、訪問する場所の歴史を勉強してから出かけました。
このようなやり方は、かつて象潟を訪問した際にもいたしました。
ただ漫然と徘徊することにも、それはそれで楽しさがあります。
でも、あらかじめ知識を得てから出かけると、“場所の重み”すなわち、その場所に関係した先人諸氏の気持ちやご苦労を時空を超えて共感できて、旅がより一層面白くなるように思いました。
逆に、お読みいただく皆様におかれましては、記述が冗長となった分、読みづらさを感じていらっしゃるかもしませんけれど。
八丈島へは、いつか再訪したいと思っております。
それも次回は、宿泊したいところです。
宿泊し、夜に居酒屋を訪問して、地魚や島産の野菜を使った料理を肴に、島の焼酎をいただきたいと、心の底からそう思いました。
最後になりましたが、お礼のことばを。
今回は事前に情報を収集するにあたって、各方面の方々にお世話になりました。
甘藷由来碑へのアクセス道(工事中)の通行の可否について、八丈町総務課・同建設課の各ご担当、および東京都八丈支庁土木課ご担当より、情報をご提供いただきました。
とくに工事管理者である八丈支庁土木課のご担当におかれましては、観光客対応は本来の業務ではないにもかかわらず、アクセス方法をものすごく丁寧に教えていただきまして、とても助かりました。
また、“八丈島自然ガイドサービスしいのき”のご担当におかれましては、ヤマビル発生の有無について、これまた業務と直接関係がないにもかかわらず、お忙しい中をものすごく丁寧にご対応いただきました。
八丈島はその成り立ちに起因して野生動物が生息しない生態系なので、その血液を餌にするヤマビルもいないのだそうですよ。
皆さまのご助力を賜り、おかげをもちまして無事甘藷由来碑へたどり着いて、その歴史の重みを体感することができました。
本当にありがとうございました。
一方で・・・、
観光協会の対応は・・・・・・(ドイヒー)、
観光客対応が本業のはずなのに・・・・・・。
それとも「こいつはたいして島に金を落とさない観光客だ」とバレちゃったのかな?
やめておこう。
せっかく買ってきた焼酎がまずくなっちまうぜ。
[引用した文献]
(※1)加藤百一『八丈島焼酎の系譜とその背景(一)』p.47(日本醸造協会雑誌56巻1号 p.44-49 1961.01 日本醸造協会)
(※2)(※1)p.44
(※3)山田平右エ門『改訂版 八丈島の戦史』p.60(1992.12初版 2012.5改訂2版 郁朋社)
(※4)(※3)p.93
(※5)(※3)p.98
(※6)(※3)p.47
(※7)(※3)p.48
(※8)加藤百一『八丈島焼酎の系譜とその背景(9)』p.36(日本醸造協会雑誌56巻9号 p.35-41 1961.09 日本醸造協会)
(※9)加藤百一『八丈島焼酎の系譜とその背景(八)』p.40(日本醸造協会雑誌56巻8号 p.40-45 1961.08 日本醸造協会)
(※10)(※8)p.37
(※11)加藤百一『八丈島焼酎の系譜とその背景(六)』p.64(日本醸造協会雑誌56巻6号 p.64-69 1961.06 日本醸造協会)
(※12)(※8)p.39
(※13)(※8)p.39-40
(※14)赤井克己『宇喜多秀家は八丈島で誇り高く生きた』p.36(岡山ペンクラブ編「岡山人じゃが 2021」p.36-43 2021.09 吉備人出版)
(※15)(※14)p.37
(※16)(※14)p.38
(※17)(※14)p.41
(※18)(※14)p.40
(※19)加藤百一『かんも・しょうちゅう(醸造と文化)』p.186(日本醸造協会雑誌76巻3号 p.183-187 1981.03 日本醸造協会)
(※20)加藤百一『八丈島焼酎の系譜とその背景(十二)』p.55(日本醸造協会雑誌56巻12号 p.54-60 1961.12 日本醸造協会)
(※21)(※11)p.66
(※22)小宮山善之助『焼酎風土記--八丈島』p.239(日本醸造協会雑誌71巻4号 p.238-241 1976.04 日本醸造協会)
(※23)(※19)p.187
(※24)金羊社発行『焼酎楽園 Vol.13』p.10(2004.5 星雲社)
(※25)菅間誠之助『見なおされる第三の酒』p.211-212(1975.7 朝日ソノラマ)
(※26)(※3)p.80(浅沼良次「人間魚雷「回天」の配備」p.80-81中)
(※27)(※3)p.102-2
(※28)(※3)p.90-2(元浦兵団参謀 陸軍少佐 本庄正八郎「終戦直前の八丈島」p.90-1~90-4中)
(※29)(※26)p.81
(※30)(※3)p.102-5~102-6
東京都内を徘徊してまいりました。
私が住んでいる千葉県と東京都とは、
隣接する位置関係にございます。
それ故、
宿泊する必要はなかろうと判断し、
日帰りで出かけてまいりました。
なお、今回は、
焼酎の収集を主目的として出かけました。
実は、東京都内には。
「本邦における甘藷の終着駅」(※1)
にして、かつ、
「本邦における芋焼酎の終着駅」(※2)
と評される場所があるのです。
でもでもでも!
天気予報には傘マーク!
しかも降水確率は“半か丁か!”の50%。
果たして酔っぱらいは、
雨に降られることなく徘徊できるのか?
徘徊の成果たるや如何に?
どうぞ、お楽しみくださいな。
★☆2023年7月22日(土)★☆
朝の5時前。
自宅の近所にあるバス停より、
バスに乗車。
羽田空港第2ターミナルにて下車。
けっこう人多いね。
ここ羽田空港から私が向かうのは、
八畳間。
じゃなくて、
八丈島
八丈島は、もちろん東京都(東京都八丈町)。
東京都区部からおよそ300kmの位置にあります。
船だと10時間ほどかかりますが、飛行機だとたったの55分。
飛行機は朝・昼・夕方の3往復あるので、日帰りも可能なのです。
羽田空港からは、
八丈島行のANA1891便に搭乗。
運賃はLCCの2倍くらいもするのに、
座席はLCCと大して変わらないクオリティ。
他社との競合がない路線であるが故の殿様商売?
飛びます!、飛びます!(坂上二郎さんより)
いいえ、もう飛んでいます。
あたしゃ飛行機に乗って雲の上に出ると、
一生涯で無二の大親友だったごんちゃんがどこかにいるんじゃないかと探してしまうのが癖なのでした。
でも写真を携帯電話の待ち受け画面にしているので、
ごんちゃんといつも一緒に行動しているつもりです。
八丈小島。
今は無人島ですが、かつて島の南半分を村域とした宇津木村には町村総会(町村議会の代わりに設置できる、町村民全員が参加して議決する機関:地方自治法94条)があって、今日においてもこれが現行憲法下では唯一の設置例であるそうですよ。
八丈小島が見えると、
そこはもう、八丈島。
時刻は8:40。
羽田での荷物積込遅延の影響で、15分遅れの到着でした。
八丈島は、二つの火山がつながった、ひょうたん型。
そのつなぎ目になる辺りに、街が形成されています。
今回は、この市街地を徘徊してみたのでした。
それにしても、
いい天気!
風が気持ちいい!
街路樹がハイビスカスなところが、南の島っぽいね。
でもいいですか、皆さん!
あくまでも、ここは東京都ですからね。
空港の滑走路の下をくぐるトンネル。
その入口で、
クワガタ(コクワガタ?)を発見。
トンネル内で、
“ハッ!”
と奇声を出して響きを楽しんだりして(おきなわフチ歩きより)。
植物公園入口を、
植物公園に入らずに通過。
植物公園沿いの道を歩いていくと、
コンクリート製の遺構を発見。
これは、
太平洋戦争(大東亜戦争)中に設置された。
トーチカ(防御陣地)の跡なのだとか。
文献に、八丈島では「戦争末期には二万近い陸海軍人が駐屯して、着々と決戦準備を進めていた。」(※3)とありました。
2万人って、今の八丈町の人口(令和2年:7,042人)の3倍に近い数ですよ。
八丈島は本土との距離が近く、また当時から空港がありました。
それ故、米軍が本土空襲の拠点とすべく占領しようとする可能性が高いと、帝国陸海軍は判断したのでしょう。
ですが文献には、以下の記述もありました。
「八丈島は幸いに、敵軍上陸という最悪の事態を免れた」(※3)
「サイパン・テニアン・グアムを基地とするB29爆撃機が、日本本土に対する本格的な空襲を開始したのは、昭和一九年一一月二四日からであるが、八丈島民はこの日早くも爆撃行を目撃している(本土爆撃へ来襲するB29は、その殆どが八丈上空に達すると、後は駿河の富士を目印にして目的地へ向かったとのことである)。」(※4)と書かれておりました。
要するに、幸いなことに、
八丈島は、米軍による上陸作戦や空襲の標的にはならなかったのだそうです。
このことについては、文献には、
“米軍が八丈島を意図的に避けた”
という記載がありました。
「アメリカ軍は、硫黄島攻略戦の障害になりそうな、本土沿岸の各飛行場を叩こうと企図し、本土東方沖の機動部隊から、二月一六日、各地飛行場を襲撃したが、その一部が、八丈攻撃隊だった。
(中略)
終戦直後私は、戦犯容疑で明治ビルに呼び出され、当時の事情を執拗に調べられたので、余りの不審さに訊ねたところ、当日の八丈攻撃隊は全機墜落して生存飛行士がなく、疑惑を抱いた米軍は、その後八丈を回避するようになったという経緯を私は初めて知りました。」(※5)
2万人もの日本の軍隊が駐屯した一方で、
島民は島から強制的に疎開させられた
のだとか。
「日本政府は、昭和一八年一二月二一日の閣議で、都市疎開の実施要項を決定したが、その中に「状況により必要と認める都市に、疎開の勧奨を行う」との条項がある。一九年七月七日にサイパンが玉砕し、八丈島にも何時、米軍が上陸するかも知れないという事態になって来たので、恐らく上記条項を適用したのであろう、警備隊司令官子安和夫大佐は、七月一〇日各村に疎開要領を通達した。この日の樫立村役場日誌には、「疎開問題ニ依リ一大風雲ヲ告グ、村内大混乱ニ陥リ多忙ヲ極ム」と記されているので、この日から島の疎開騒動は始まったと思われる。」(※6)とあり、「こうして疎開した者の総数は、五八五三名(島民の七〇パーセント)に達している」(※7)。
島民の70%もが島から追い出され、
そこへ2万人もの軍隊が派兵され駐屯したならば、
島全体が要塞化することは容易に想像し得ますね。
それ故に、太平洋戦争(大東亜戦争)の敗戦から80年近くも経た今日においても、八丈島ではこのような軍事施設の痕跡を各所で少なからず見つけることができるのだそうです。
さらに歩いていると、
オオタニワタリ(大型のシダ植物)。
南国っぽいね!
神社を発見。
あたしゃ旅で最初に出会った神社やお寺には、参拝することにしておりますよ。
社号はどこにも記されておらず、
わかりませんでした。
お賽銭は、石の上に置くシステム。
(5円ぽっちって、ドケチだな!)
二礼二拍手一礼。
楽しい旅になりますように。
参道の脇にて、八丈島らしい植物を発見!
これ、アシタバ(明日葉)ですよね。
玉石垣を発見。
この玉石は、海岸から運ばれて来たものとのこと。
裏を取ってはいないので真偽は定かではございませんが、
“かつて島流しにされた罪人が海岸から運び、一個運ぶとおにぎり1個がもらえた。”
との逸話ありとのこと。
六方積み(1つの石を中心として6個の石で囲む積み方)なんだってさ。
馬路バス停まで歩いてまいりました。
ここからは、
通りから一本入ったところへ、
“通行止”とありました。
しかし工事を管理する東京都八丈支庁土木課にあらかじめ問い合わせたところ、
「見学目的で、かつ徒歩であれば通行可。」とのご回答を頂戴いたしました。
それ故、とある石碑を見学すべく、
徒歩で入っていったのですが・・・・・・・・・、
雨が降って来やがった!
しかもかなりの豪雨!
さっきまではあんなに晴れていたのに。
豪雨の中を歩いて、
目的地までなんとかたどり着きました。
これは、
「八丈島甘藷由来碑」、あるいは
「八丈島甘藷渡来碑」
八丈島にサツマイモをもたらした菊池さん親子を顕彰するこの甘藷由来碑。
碑文はかなり読みにくくなっておりました。
文献の記載を引用して、
碑文に書かれている文字を紹介いたします。
「文化八辛未年(1811)四月新島ヨリ赤持参サツマ種初作
六代目 菊地秀右衛門
文政五壬午年(1822)四月右同断ハンス種
七代目 菊地小源太
慶応己辰三月 建立 八代目 同右馬之助」(※8)
(西暦はブログ筆者追記。なお“菊地”は文献のまま掲載)
サツマイモが最初に八丈島にもたらされたのは、「世に所謂「享保の御改革」が仰せ出された徳川八代将軍吉宗の治世下、一七二三(享保八)年であった。」(※9)が、「栽培方法の不慣れから、「公命御厚情之御仁恵」を以て下賜されたものすべてが失われ、せっかくの努力も水泡に帰してしまった。」(※9)のだとか。
すなわち、「始めて八丈島に甘藷種子がもたらされてから約一世紀の間は、八丈島の甘藷史における黎明期ともいうべき期間であった。従って、甘藷は未だ島を挙げて全面的な栽培は見られず、扶食として或いは救荒作物としての地位を確保するまでにはいたらなかった。」(※10)とのこと。
なお、当時の八丈島は土地が痩せていた上に災害も多く、米などの穀類を栽培するには難しい土地だったそうです。
このことについて、以下のような記述がありました。
「 黒味を帯びた玄武岩と安山岩を母体とした火成岩上に、火山灰や噴出物でおおわれた島、その限られた地形をきり拓いて作られた僅かな田畑に、生の凡てを賭けなければならなかった島の生活は、暴風雨旱魃噴火或いは虫鼠害によって執拗に繰り返えされた飢饉と、それに直結する餓死と、常に真正面から対決しなければならなかった。しかも、本土からの救助の手段が考えられない往古にあっては、如何なる災害に対しても島は島だけの自活が強いられた。こうして、幾度も生死の境まで追いつめられながら生き抜いた島人の生活記録を、島の古文書は伝えている。」(※11)
しかしその後、上記甘藷由来碑(渡来碑)にある通り、
享保期とは異なった品種(赤サツマ種(1811年)・ハンス種(1822年))がもたらされてからは、それが八丈島のみならず八丈小島や青ヶ島にまでも広く普及し、飢饉から人々を救ったのみならず、島の人口増加にも寄与したのだとか。
「 八丈島甘藷史における後期の黎明は、こうして迎えられた。島へ渡った甘藷の新品種は、大賀郷の菊地秀右衛門父子、三根村の高橋与野右衛門、樫立村の宇兵衛等の肝入りで漸々に島の土質に馴らされた。その中でも「赤サツマ」・「ハンス」等新品種の普及は比較的速く、一八一一年(文化八)から文化期(文政期の誤りか?:ブログ筆者追記)(一八一八-三三)末ころまでには、もうすでに八丈島は勿論属島の小島・青ヶ島にも行き渡った「八丈実記拠」巻二五に、
「始メハ土地ニ相応セズ、天保ノナカバヨリヤウヤク地味ニ合シテ、八丈小島青ヶ島マデ農家各々数百俵ノ美味ヲ収納シ・・・・・・」
云々とあるはかかる意である。」(※12)
「 また、甘藷の普及化に伴って、島の人口は急速に増加していった。(中略)一八四〇年(天保一一)の島内人口は、この間天保の大飢饉で餓死八〇〇名を出したにも拘らず、三分の二世紀の間に一七七四年(安永三)の人口の約一・四倍に達し、さらに二〇年後の一八六〇(万延元)には安永期の一・八倍、天保期の一・三倍の増加を示した。一八世紀後半期以降の、このような人口の激増振りは、少くともその原因の一つは、新品種の甘藷栽培を挙げるべきであろう。」(※13)
その甘藷由来碑があるあたりは、
墓地になっておりました。
菊池姓が多いみたい。
みなさんご子孫の方々なのでしょうか?
雨がどんどんひどくなってきやがったので、退散。
どしゃ降りだなこりゃ!
こんな豪雨に出くわすのは、4年前の人吉以来ですよ。
(神社で賽銭をケチったバチだな。)
スーパーへ避難し、
八丈島の地焼酎をGET!
八丈島の焼酎については、この後言及いたします。
そのスーパーの正面にあったいそざきさんは、
かつて磯崎酒造として焼酎を製造していた蔵元さんだったそうです。
“黄八丈”の手印は、坂下酒造さんが引継いでいらっしゃいます。
女将さん、いい話を聞かせていただいてありがとうございました!
そのいそざきさんで、
明日葉茶をGET!
青みが穏やかでソフトな口当たりでした。
ええ~!?(←マスオさんより)
あんなに降っていたのに、
もうカンカン照り!
いやがらせかよ!
カンカン照りの中を歩いて、
宇喜多秀家の住居跡へ。
宇喜多秀家は、安土桃山時代の武将
豊臣政権下では岡山城主として50数万石を拝領した大大名であり、同政権の末期に設けられた合議制では五大老の一人として補せられた、秀吉の信任厚かった人。
しかし、秀吉没後の関ケ原の戦い(慶長5年:1600年)では西軍(反徳川軍)の主力として奮戦するも敗北。
とまあ、ここまでが、学校で日本史を勉強したことがある人だったら知っている一般的なことでしょう。
その宇喜多秀家さん、
関ケ原で負けた後、同じ西軍であった島津家を頼って薩摩へ逃亡したんだってさ。
しかしその後、幕府に捕縛され、死罪は免れたものの、
「同11(1606)年4月、八丈島初の流人」(※14)になったとのこと。
時代劇でよく、“八丈島への島流し”って聞くけれど、
最初の流人は宇喜多秀家さんだったんだね。
しかも八丈島まで行くのがこれまた大変で、「幕府御用船で伊豆網代から出港したが、すぐに下田で風待ち。さらに大島、新島などに寄港後、八丈島まで4カ月もかかってやっとたどり着いた。」(※14)んだってさ。
住居跡の入口には、お手植えのソテツがありました。
こちらが、住居跡。
島での暮らしは決して楽なものではなく、当初は他の島民と同様に貧しい暮らしをしていたそうです。
しかし、「生き別れになった妻・豪の実家加賀藩が窮状を知り、幕府に願い出て同14(1609)年から1年おきにコメ70俵、金子35両のほか衣類・薬・日用品などを送り始めたことから、困窮の生活は脱却できた。」(※15)のだそうです。
でも秀家さん、決してそれを独り占めすることはなく、
「食糧は関係者の日常を十分賄い、余分は地元民にも提供。加賀藩派遣の医者は島に残り、医院を開き島民も診察した。島民との親睦、融和は進んだ。」(※16)のだとか。
宇喜多秀家さんのお墓もあるんだってさ。
アドベンチャー感満載の細い道を通って、
本日2回目の墓地訪問。
その一角に、
宇喜多秀家さんのお墓がありました。
宇喜多秀家さんは、「八丈島に流された時は33歳。以後83歳で死去するまでの50年間、」(※16)をここ八丈島で過ごしたのだとか。
当時としては長寿だったのでしょう。
その宇喜多さんの生き方について、文献には、「「天道に恥じる卑劣なことをしなかった」と矜持を持って悠々自適の生活を送ったと思われる。」(※16)と書かれておりました。
この、“天道に恥じる卑劣なことをしなかった”との矜持について、それを伝える史料は複数存在し、その研究は進んでいるようです。
かつて八丈島で開催された講演会で、人見彰彦氏(岡山県郷土文化財団元参事)という御仁が『久福様御遺訓』(宇喜多秀家の言葉を書き記したもの:金沢市玉川図書館蔵)について、その考え方の根底を以下のように紹介したそうです。
判官贔屓でへそ曲がりのワタクシは、この一節に心惹かれてしまいました。
「八丈島に配流後しばらくして、幕府が秀家に特赦を出そうとしたが、「自分は人道に叛くような罪悪をしていないから、“許す”という考えは筋違いだ。秀吉公の死の直前、枕頭で秀頼様を後継者とする誓約書に5人の大名が互いに血判を押したが、それを破ったのは家康だ」との考えがその根底にあったと人見氏は解説した。」(※17)
宇喜多秀家さん、かっこいいじゃないですか!
大河ドラマや時代劇映画などでは、まだ主役級の扱いを受けてはいないみたいですね。
(オイラが知らないだけ?)
もし『宇喜多秀家物語』が制作されたら、けっこうおもしろくなるんじゃないの?
お父さん(宇喜多直家)はかなりの策略家だったそうですが、それとの対比で真面目な二枚目でやってもらいたいな。
例えば、
お父さんが遠藤太津朗で、
宇喜多秀家さんは竹脇無我で、
みたいな感じで。
(古っ!)
その竹脇無我、じゃなくて、
宇喜多秀家さんの墓前にひざまづいて、合掌。
湯呑には、宇喜多さんの家紋がありました。
関ケ原の場面では、合戦の開始直後によく見る西軍先鋒隊の旗印としておなじみですね。
なお、この墓地には、
宇喜多ならぬ“浮田”さんが多いみたい。
「明治2(1869)年、宇喜多家の子孫すべて(20数家族になっていた)が本土に帰ることを許された」(※18)そうですが、
もしかしたら八丈島に残った人もいたのかな?
そして何らかの事情により、姓を宇喜多から浮田へ変更なさったのかもしれませんね。
いやー、
歴史って、
本当におもしろいですね。
ところ変わって、
護神山へ。
ここには、神様のマンションがあるみたい。
こんなにいらっしゃると、どの神様にお願いするか迷うんじゃないの?
「とんでもねえ、あたしゃ神様だよ!」(ドリフの神様コントより)
私はそれよりも、その隣にある、
“島酒之碑”がお目当てだったのでした。
草ボーボー!
これが、島酒之碑です。
“島酒之碑”は
「昭和42年8月28~30日,八丈島で第1回流人祭が催されたのを機に、大賀郷護神山に建てられた」(※19)もの。
「かつて焼酎造りに使われた径1.5mの大甕で、その周りを72L容の小甕が取り巻いている。」(※19)のだとか。
裏面には、建立の由来が書かれているのだそうです。
しかしそれを見に行くためには、
ボーボーの草をかき分けて行かねばなりませぬ。
はい、
こちらがその建立の由来。
わかりにくいでしょうから、文献の記載を引用します。
「島酒之碑
丹宗庄右衛門翁ハ薩州出水郡阿久根村ノ産デ嘉永六年密貿易ノ罪ニヨリ八丈島ニ流サレ明治元年ノ赦免マデ諦居スルコト十五年初メテ八丈島ニ焼酎ノ製法ヲ伝エタ
此ノ島酒タルヤ真ニ芳醇一酌忽チ胸襟ヲ洗ツテ陶然万累ヲ忘レマサニ酎界ノ王者デアル
茲ニ碑ヲ建テテ翁ノ徳ヲ頌シ天ノ美禄ヲ酔郷ノ寶ト共ニ礼賛スル
昭和四十二年八月二十八日
八丈島観光協会
八丈島酒造組合 建 之」(※19)
嘉永六年(1853年)と言えば、
ペリーが黒船に乗ってやってきた年ですよ。
関根勤さんの説によれば、
もち肌のペリーは、静かな口調で
「国ヲ開ケナサ~イ!」と日本語で言ったとのこと。
その同年に、
抜け荷(密貿易)の罪で八丈島へ流罪となった、
薩摩阿久根ご出身の丹宗庄右衛門さん。
「ただ一介の貿易商人ではなく、恐らく苗字帯刀を許された家柄であったことが推定され」(※20)、かつ、
「彼の生家が代々焼酎製造を業としていた」(※20)のだとか。
それ故、
故郷でなじみが深いサツマイモが八丈島で広く栽培されていることを知って、
“芋焼酎を造ろう!”
と思ったことは容易に想像できますね。
ですがここで、一つ問題があったのでした。
それは、
当時の八丈島では、酒造禁止令が発せられていたこと。
その理由は、八丈島甘藷由来碑を紹介した部分で述べたとおり、八丈島は土地が痩せていた上に災害も多く、穀類を栽培するには難しい土地だったことからでした。
また当時の八丈島で酒と言えば、古くから伝わる濁酒であって、
清酒を造る技術は存在しなかったのだとか。
濁酒のほうが清酒よりも歩留りが悪い(同じ量の穀物を原料としても、濁酒の方が清酒より製品量が少ない)でしょうから、それこそ穀物の無駄遣いになるわけですね。
それ故、清酒を製造する技術がなかったことも、酒造禁止令の一因となったのでしょう。
文献では、このことについて以下のように解説しておりました。
「以上この孤島の生活の不可離の関係にあった飢餓史から、流人を含めた島の人々が、安易な気持ちから濁酒を醸造したり、また単なる嗜好から常に濁酒を飲むには程遠い距りがあったと想像されないだろうか。いい換えれば、頻発する飢餓を常に意識しつつ乏しい食生活を強いられた八丈島では、米であろうと、麦であろうと、また、粟や黍であろうと、これら穀類から濁酒を製造することは、次の飢餓時にはそれだけ餓死線に近付くことを意味していたので、濁酒造りは必然的に制約され、自粛せざるを得なかった。(中略)かく按じくれば前章で考証した八丈島における濁酒造りは、古昔から伝承された方法をずっと上廻るほど進歩していたとは考えられない。」(※21)
そんな時代に、八丈島へ流罪となって、サツマイモで芋焼酎を造ることを思いついた丹宗庄右衛門さん。
しかしサツマイモで芋焼酎を造ることも、酒造禁止令に反する惧れがまったくないわけではありません。
そこで丹宗庄右衛門さん、「一番やっかいな役人にも念を押しておく必要があるので,伺いをたててみると,穀類を使わずに酒ができるものなら造ってもかまいいはせぬと,突き放したような返事が返ってきた。」(※22)のだとか。
要するに、芋焼酎の知識のかけらもない木っ端役人共に、
やれるものならやってみろ!
って言われたってことでしょう。
こうして丹宗庄右衛門さん、サツマイモを使って芋焼酎を造ったところ「それはまずよく砂を通して清水のように澄んでいる。次にはその度が極めて高く(25%)飲み口がすがすがしい。最後に原料が禁酒令に違反しない薩摩芋で,しかも量産が可能である。島民は競って庄右衛門に製法の手ほどきを請い,焼酎はあっという間に八丈島を席捲し,万木凋落の寂しい陰をおとしていた八丈島が,百花繚乱の明るさを取り戻した。そして,当然のことのように,この天の美禄を八丈島にもたらした庄右衛門は,神様並みの尊崇を受けた。」(※22)とのこと。
ここまでの話をまとめると、
1723(享保8)年
幕府からサツマイモが下賜されるも栽培できずにおしまい。
1811(文化8)年・1822(文政5)年
菊地さんがサツマイモの新品種(赤サツマ・ハンス)を伝えて普及し、飢饉を救った。
1853(嘉永6)年
島流しにされた丹宗庄右衛門さんが芋焼酎の製法を伝え、普及した。
ってことですね。
めでたし、めでたし!
なお、2点について付言。
まずは麹について。
鹿児島県や宮崎県では、芋焼酎を仕込む際に、麹は米麹を用いることが一般的です。
一方で八丈島では、麹はカブト麦を搗いたもの(チクリン)を用いたのだとか。
これも、「凶作飢饉を常に意識して自活しなければならなかった島方では,むしろ当然のことであった。また甘藷が流布し触事情が好転した天保期(1830-1844)以降でも,米だけは備畜食料第一といった気持は島人共通のものであった。」(※23)ためだったそうです。
次に、原料の変化について。
これまでに記してきたとおり、八丈島の焼酎といえば、幕末よりずっと芋焼酎でした。
ところが最近では、芋焼酎よりも麦焼酎のほうが生産が増えているのだとか。
このことについて、文献の記述を2点紹介して、この話を終えたいと思います。
「現在、島内に製造場は五ヵ所。(2004年当時;2023年現在は四ヵ所:ブログ筆者追記)さつまいもの栽培がすたれ、いも焼酎より麦焼酎が主体となっているが、それぞれに個性を競っている。」(※24)
「 八丈でとれる唐芋(かんも)「赤てるこ」、「白てるこ」は内地の甘藷より良質で、焼酎造りに適している。ただ悩みの種は本土から米穀が支障なく供給されている現在、甘藷栽培の必要性がうすれ、その生産が年々減少していることである。今では焼酎の原料として甘藷は麦よりも高くつく。原料の処理も泥のついた傷みやすい甘藷より、即席で使える押麦や精麦の方がはるかに手間がかからない。これまでも八丈の焼酎は押麦の?を使っていたこともあり、最近では原料の大麦への全面転換も考えられているときく。しかし幕末以来つづいた東京都の薩摩焼酎百年の歴史を書きあらためることがよいかどうか、十分考える余地があろう。」(※25)
あ、そうそう!
島酒之碑の隣には、魚之碑がありましたとさ。
さらに歩いて、
とある酒屋さんで、新島の麦焼酎をGET!
新島の焼酎に関しても、調べ甲斐がありそうな予感がいたします。
このあと、
川沿いの道を東へ歩いて行ったのでした。
にゃんこ発見!
でも、遊んでくれなかったのでした(トホホ・・・)。
さらに川沿いを歩いて、
いったん川から離れて、
坂を下りて、
クワズイモだ!
自生しているのかな?
デカいね!
花屋で売っている観葉植物とは迫力がちがうね。
河口付近で、再び川と合流。
その合流地点の近くにあるこの洞窟が、目的地。
ここには、旧帝国海軍の
特攻兵器「回天」の基地
があったのだとか。
回天とはどのような特攻兵器だったのか。
それは、以下の記述が伝えてくれております。
「 日本の敗色が濃くなった二〇年五月三一日、特攻隊員の八人の将兵たちと人間魚雷「回天」が八丈島に配備された。
日本海軍の秘密特攻兵器「回天」とは、特攻隊員の体当たり攻撃によって敵艦を沈め、不利な戦局を有利に転換する、いわゆる起死回生を図るという意味から名付けられたものである。
(中略)
回天の原型となったのは海軍の九三式魚雷で、当時としては世界でも第一級の性能をもっていた。これを一人乗りの小型潜水艦に改造し、体当たり攻撃を行うようにした特攻兵器であった。」(※26)
魚雷は、駆逐艦などの小型艦船や飛行機(攻撃機)から水面下へ向けて発射され、敵の船の喫水線下(水面下)に当てて船体に穴を開け、その船を沈没させる兵器です。
潜水艦も魚雷を装備していましたが、その場合はもちろん海の中で発射されます。
回天は、その魚雷に運転席と潜望鏡とを付け、人間が乗って運転し、敵の船に体当たりして自爆するように設計された特攻兵器だったのです。
回天は魚雷から改造された兵器であることから、本来は潜水艦で敵艦の近くまで運び、海中で発射されるように設計されていたそうです。
しかし戦局が悪化するにつれて「母体である潜水艦の消耗が余りにも激しかったので、」(※27)陸上から出撃するための基地が整備されていったのだとか。
その基地の様子について、文献には以下のような記述がありました。
「 件の陣地の近くに既に相当大きな洞窟が掘ってある。中に入ると海中にレールが伸び、その脇に所謂人間魚雷が何基か黒光りする胴体を並べていた。もっと奥に収納しないと、上陸前の砲爆撃で発進前に潰される可能性があるという。小さな潜望鏡のついた塔に、菊水の紋が印象的だった」(※28)
しかし、
ここから回天が出撃したことは一度もなく、
それどころか、
洋上で訓練したことすらなかったのだそうです。
「 八丈島の基地は末吉の「石積」と、三根の「底土」の二ヶ所(中略)であるが、回天の出撃用酸素は、一回分しか渡されていなかったので、八丈島での訓練は出来なかったとのことである。」(※29)
「 設営隊は両基地とも、壕内から水際までレールを敷いてくれていたが、回天隊にはその連絡がなかったので、車輪付の回天台車は島へ持参しなかった。そこで、レールの上に厚板を乗せ、その上に径20センチのチーク材を並べ、そして台車を滑らせる方法を考え、とりあえず車輪のない台車(架台)のまま壕内に格納したが、あとで車輪付き台車の供給を受け、壕内で吊り上げ交換をした。
こうして移動が容易になったので、回天の入れ替えと平地のレール上を搬出する訓練は何度か行ったが、洋上訓練には至らなかった。
それは回天が一度洋上に出て帰投すると、その都度、分解組み立てをしなければならないが、島にはその施設がなかったからである。」(※30)
命を賭けた特攻を、事前の洋上訓練なくしてたった一回のチャンスで成功させろだなんて、お粗末にも程がありますね。
それにもともと潜水艦で敵艦の近くまで運んで発射するように設計されていた兵器を、敵艦から遠く離れた陸上の基地から出撃させることにも無理があります。
到底うまくいくはずがないことは、たとえ当時の人であっても冷静に考えればわかったはずですよ。
さらに文献には、以下の恐ろしい記述がありました。
「しばらくして訓練が終り、暗幕を開けて講評となったが、立ち上がって整列した隊員を見て私は吃驚した。何と十六、七の可愛い少年達ばかりではないか。途端に私は大声で叫びたい程の衝撃を受けた。涙がパアツと溢れ出して止まらなくなってしまった。」(※28)
実戦経験のない16-17歳の少年たちに、一度の洋上訓練もすることなく特攻させるなんて。
彼らには、特攻を成功させるために必要な技術も能力も精神力も、到底備わっているとは思えません。
もちろん、
現場で訓練を受けていた少年たちや、彼らを指導していた教官は、みな純粋に報国の責任を全うしようと必死だったことでしょう。
そんな先人たちの努力と真心とには、心の底から頭が下がります。
でも、少年たちにそんな無理なことをさせるように決めたり、あるいは特攻を立案したり、もっと言えば国力の差が歴然たるアメリカとの戦争を決めたりした軍統帥部のお偉方は、どうかしていたんじゃないかな。
ワタクシが少ない知識を基にして考えても、
日本は、少なくとも政府は、互いの腹の内はともかく、アメリカとはうまくやっていた歴史があったはずだったのに・・・。
桂・タフト協定や石井・ランシング協定然り、あるいは日露戦争の講和仲介を頼んだり、
ワシントン条約やロンドン条約を締結して、海軍軍備の均衡で協調していたり。
さらには、日本にアヘンが蔓延しなかったのは、アメリカが日米修好通商条約の4条にアヘンの持ち込み禁止を入れてくれたおかげだという意見もあるみたい。
こんな明らかにおかしいことであっても、
“報国のため”と正当化されてしまう戦争は、
絶対に、二度と起こしてはいけませんね。
同じ報国でも、あたしゃ、
“愛酒報国”
を貫きますよ。
そんな少年兵たちが、どんな気持ちでここで訓練したのか?
少しでもわかりたいと思い、洞窟の中へ少しだけ入って、海のほうを臨んでみました。
洞窟からいったん川へ出て、
そこから洋上へ出撃する予定だったのですね。
洞窟の入口でふと足元を見ると、
腐食したレールを発見。
回天を運搬するために敷かれていたものでしょうか?
たとえ80年近い年月を経て腐食し続けたとしても、
細いレールだこと!
もしかしたら、戦争中の資材不足がこんなところにも現れていたのでしょうか?
底土港の展望台に上がって、
太平洋を望む。
北側には、八丈富士。
北側の海岸は、にぎやか。
たくさんの海水浴客が楽しんでおられました。
海水浴を楽しめるのも、平和であるからこそですね。
南側には、三原山。
この南側の海は、
もし回天が出撃していたら、少年兵たちが最初に出たはずの海。
北側のにぎやかさとは対称的に、とても静かでした。
海から離れて、島の中心へと折り返したワタクシ。
アシタバがそこら中に自生していましたよ。
途中で立ち寄った土産物店で、
八丈島の地焼酎300ml瓶をGET!
ちょうどお昼となりました。
腹が減ったので、
お目当ての“蓮華”さんへ。
八丈島について調べていた際にご店主のYoutube CH.を見つけ、ぜひともうかがいたかったのでした。
まずは生ビール!
実はこれ、この日の一杯目。
ビールをさっさと開けて、芋情け嶋の水割りへ移行。
上立ち香は香ばしい穀物香。含むと華やかな芋の風味に、麦の香ばしさを伴う。
うまいなあ!
そしてワタクシが注文したのは、
辛しお焼きそば。
“辛”なのに赤くないのは、八丈島産の青唐辛子を使用しているから。
たしかに辛い、ピリピリ来る。
でも後を引かずスッと引いて、爽やかな辛さ!
これはおいしいわ!
スープも付いとるでよ。
おいしい辛しお焼きそばに、
芋情け嶋がバッチリ!
あー、おいしかった!
蓮華さん、心の底からおススメです!
お腹も心も満たされた酔っぱらい。
炎天下をさらに歩いて行ったのでした。
街路樹のハイビスカスは赤でしたが、
とあるお宅のお庭には、黄色もありましたよ。
八丈島での徘徊も、そろそろおしまい。
八丈島空港まで戻ってまいりました。
空港内の土産物店を物色。
あたしゃねぇ、
八丈島へ来る前には、
“焼酎の小瓶のセット商品があるかもしれない”
と期待しておりました。
例えば↓こういうやつ
でも、
八丈島にはそれがなかったのでした。
それぞれの地域でお決めになることでしょうから、文句は言えません罠。
一方で、
青酎(青ヶ島産の焼酎)「池の沢」の300ml瓶を見つけてGET!
青酎は、青ヶ島へ行くまでは買わないつもりでした。
ですがここ八丈島で300ml瓶を見つけ、ついつい手を出してしまいました。
これはきっと神様の「いつか青ヶ島へ行く日のために予習しておけ」とのお告げなのかも。
それとも「八丈島でも青酎を入手できるのだから、再度八丈島に来て青酎のみならず八丈島の焼酎も買っていけ!」ということなのかな?
そう思うほど、八丈島、再度訪問したいほどでした。
飛行機の搭乗開始時刻まで間があったので、
空港内のレストランで、八丈島との別れの一献。
滑走路が見える窓側の席に座りました。
明日葉エール。
やさしい青みがおいしいね!
枝豆とポテトフライ。
どちらも600円とお高めだと思ったものの、2人前くらいでさもありなん。
そして最後の焼酎は、
情け嶋の麦。
甘くて、雑味ゼロで飲みやすい。
それなのに麦の風味しっかりで香ばしく、飲みごたえあり!
これもおいしい!
飛行機に乗るお時間がやってまいりました。
17:25発ANA1896便に乗って帰ったとさ、
以上、
千葉県から東京都への日帰り旅行でした。
今回は、あらかじめ文献を取り寄せて、訪問する場所の歴史を勉強してから出かけました。
このようなやり方は、かつて象潟を訪問した際にもいたしました。
ただ漫然と徘徊することにも、それはそれで楽しさがあります。
でも、あらかじめ知識を得てから出かけると、“場所の重み”すなわち、その場所に関係した先人諸氏の気持ちやご苦労を時空を超えて共感できて、旅がより一層面白くなるように思いました。
逆に、お読みいただく皆様におかれましては、記述が冗長となった分、読みづらさを感じていらっしゃるかもしませんけれど。
八丈島へは、いつか再訪したいと思っております。
それも次回は、宿泊したいところです。
宿泊し、夜に居酒屋を訪問して、地魚や島産の野菜を使った料理を肴に、島の焼酎をいただきたいと、心の底からそう思いました。
最後になりましたが、お礼のことばを。
今回は事前に情報を収集するにあたって、各方面の方々にお世話になりました。
甘藷由来碑へのアクセス道(工事中)の通行の可否について、八丈町総務課・同建設課の各ご担当、および東京都八丈支庁土木課ご担当より、情報をご提供いただきました。
とくに工事管理者である八丈支庁土木課のご担当におかれましては、観光客対応は本来の業務ではないにもかかわらず、アクセス方法をものすごく丁寧に教えていただきまして、とても助かりました。
また、“八丈島自然ガイドサービスしいのき”のご担当におかれましては、ヤマビル発生の有無について、これまた業務と直接関係がないにもかかわらず、お忙しい中をものすごく丁寧にご対応いただきました。
八丈島はその成り立ちに起因して野生動物が生息しない生態系なので、その血液を餌にするヤマビルもいないのだそうですよ。
皆さまのご助力を賜り、おかげをもちまして無事甘藷由来碑へたどり着いて、その歴史の重みを体感することができました。
本当にありがとうございました。
一方で・・・、
観光協会の対応は・・・・・・(ドイヒー)、
観光客対応が本業のはずなのに・・・・・・。
それとも「こいつはたいして島に金を落とさない観光客だ」とバレちゃったのかな?
やめておこう。
せっかく買ってきた焼酎がまずくなっちまうぜ。
[引用した文献]
(※1)加藤百一『八丈島焼酎の系譜とその背景(一)』p.47(日本醸造協会雑誌56巻1号 p.44-49 1961.01 日本醸造協会)
(※2)(※1)p.44
(※3)山田平右エ門『改訂版 八丈島の戦史』p.60(1992.12初版 2012.5改訂2版 郁朋社)
(※4)(※3)p.93
(※5)(※3)p.98
(※6)(※3)p.47
(※7)(※3)p.48
(※8)加藤百一『八丈島焼酎の系譜とその背景(9)』p.36(日本醸造協会雑誌56巻9号 p.35-41 1961.09 日本醸造協会)
(※9)加藤百一『八丈島焼酎の系譜とその背景(八)』p.40(日本醸造協会雑誌56巻8号 p.40-45 1961.08 日本醸造協会)
(※10)(※8)p.37
(※11)加藤百一『八丈島焼酎の系譜とその背景(六)』p.64(日本醸造協会雑誌56巻6号 p.64-69 1961.06 日本醸造協会)
(※12)(※8)p.39
(※13)(※8)p.39-40
(※14)赤井克己『宇喜多秀家は八丈島で誇り高く生きた』p.36(岡山ペンクラブ編「岡山人じゃが 2021」p.36-43 2021.09 吉備人出版)
(※15)(※14)p.37
(※16)(※14)p.38
(※17)(※14)p.41
(※18)(※14)p.40
(※19)加藤百一『かんも・しょうちゅう(醸造と文化)』p.186(日本醸造協会雑誌76巻3号 p.183-187 1981.03 日本醸造協会)
(※20)加藤百一『八丈島焼酎の系譜とその背景(十二)』p.55(日本醸造協会雑誌56巻12号 p.54-60 1961.12 日本醸造協会)
(※21)(※11)p.66
(※22)小宮山善之助『焼酎風土記--八丈島』p.239(日本醸造協会雑誌71巻4号 p.238-241 1976.04 日本醸造協会)
(※23)(※19)p.187
(※24)金羊社発行『焼酎楽園 Vol.13』p.10(2004.5 星雲社)
(※25)菅間誠之助『見なおされる第三の酒』p.211-212(1975.7 朝日ソノラマ)
(※26)(※3)p.80(浅沼良次「人間魚雷「回天」の配備」p.80-81中)
(※27)(※3)p.102-2
(※28)(※3)p.90-2(元浦兵団参謀 陸軍少佐 本庄正八郎「終戦直前の八丈島」p.90-1~90-4中)
(※29)(※26)p.81
(※30)(※3)p.102-5~102-6
こんにちは。
「八畳間」なる程、気付かなかったです。座布団2枚です!!
上空でごんちゃん探し!!大変可愛いニャンズで・・・
ニャンとなく黒猫の旦那のお目々に似てますね。
八丈島、ハイビスカスあり南国の風景で心地よい風景です。
戦時下の八丈島、成る程で沢山の要塞の跡や記念碑あり、驚きました。
辛しお焼きそば、青唐辛子を使用ですが・・・
「爽やかな辛さ」は好感触で旨そうです!!
事前に訪れる場所の知識や情報の下調べは大切ですね。
無事に八丈島に日帰り帰国、お疲れ様でした!?(=^・ェ・^=)
by Boss365 (2023-07-29 12:48)
拝読するのに時間がかかってしまった。。。
日帰りの旅、お疲れさまでした。
おそらく、東京都内とおっしゃっていてもきっと意外な場所なんだろうなと思っていましたが、まさか「八畳間」だとは思いませんでした。^^;
ごんちゃん、撫でてもらって気持ちよさそう。ごんちゃんと一緒の八丈島の旅、ごんちゃんもいろいろなところに連れて行ってもらえて喜んでいるだろうなあ。
それにしても八丈島の歴史に関してとても詳しく調べられましたね!敬服いたします。私なんか、どこかに出かけてもあまり下調べせず後でいろいろ調べて後悔することが多くあります。きちんと調査して史跡を訪問し、そして飲む地酒はきっと最高だったことでしょう。
辛しお焼きそば、美味しそうですね。そして何気にスープも美味しそう。^^;
by yes_hama (2023-07-29 22:11)
神社のお賽銭【五円】が正しいと思います^^;Aアセアセ
スコールはご褒美だと思いますが・・・(^^ゞ
もう三十年くらい前、竹芝桟橋売店で買った八畳間・・・もとい
八丈島産の【島娘】って焼酎がありましたが、アレがすごい(゜ω゜)
物凄く臭い焼酎で中々飲めませんでしたが、慣れたらすごかった!
ロックで飲む事を覚えたら、アッと云う間に無くなりました(><)
今でも探しておりますが、中々見付かりません(><)
潜水魚雷【回天】市川海老蔵主演の映画もありましたね。
父も特殊潜航艇に乗る予定でしたが、長くなりますので割愛します。
by kontenten (2023-07-30 18:18)
skekhtehuacso さん、ありがとうございます。
今回ばかりは酒のことより八丈島の歴史にそうだったのかと何度も自分の知らなさを反省しました。
by Nobuzo (2023-07-31 16:10)
Boss365さん、黒猫のダンナと仲良くなれたのは、ごんちゃんが「オレはもうあいつと仲良くしてやれないからお前が代わりに仲良くしてやってくれ」とダンナに頼んでくれたからだと信じています。
蓮華さんの辛しおやきそば、おいしかったです。ピリッと来てスッと引くし、それがまた芋情け嶋とバッチリでした。
次は日帰りではなくて、宿泊したいところです。
by skekhtehuacso (2023-07-31 21:03)
yes_hamaさん、今回はどうせ成果は少ないだろうと事前にわかっていたものですから、どうせならば八丈島焼酎の歴史、そしてその前提たるさつまいも渡来の歴史を調べてネタにしてやろうとの魂胆だったのでした。
歩いていてカバンが重くなると、これは酒の重さじゃなくてごんちゃんが入っているからだと思うことにしています。そうすると、苦になりませんから。
いかんいかん、思い出すと・・・、
( ;∀;)
by skekhtehuacso (2023-07-31 21:07)
kontentenさん、磯娘ってのが、廃業した磯崎酒造さんの製品であったみたいですよ。
特殊潜航艇って、甲標的ですか?
あれも出撃しても回収がむずかしい、特攻に近い兵器ですよね。
真珠湾では一隻も回収されていませんよね。
by skekhtehuacso (2023-07-31 21:13)
Nobuzoさん、私も八丈島へ行く計画を立てなければ、まったく知らずに死んでいったであろうことばかりでした。
大事なことは、みな、酒や焼酎が教えてくれるのだと痛感いたしました。
by skekhtehuacso (2023-07-31 21:15)