石垣島での泡盛集めと聖地巡礼と [旅]
今回は、石垣島へ行ってまいりました。
石垣島には、泡盛の蔵元さんが6軒ございます。
「石垣島産の泡盛の小瓶を集めてやろう!」
「運がよければ、カップ泡盛にも出会うかも!」
と思いつつ、出かけてまいりました。
なお、いつものごとく、旅の記事はかなり長めになっております。
また今回は、ただでさえ長い記事の中に、専門用語の解説を2度設けております。
石垣島の文化にご興味がおありの御仁はともかく、かならずしもそうではない皆さまにおかれましては、どうかテキトーに流してお読みいただき、ときどき鼻でクスリと笑っていただければ幸甚です。
★☆2024年1月19日(金)★☆
今回は、京成電鉄検見川駅から。
拙宅から成田空港へ公共交通機関で向かった場合、京成利用が最も早いとわかったもので。
京成津田沼駅と宗吾参道駅とで乗りかえて、
成田空港駅に到着。
成田空港から乗ったのは、
peach石垣空港行MM531便。
飛びます、飛びます!(坂上二郎さんより)
いいえ、もう飛んでいます。
あーあ、がっかり!
窓から見える景色は、雲ばっかり。
と、いうことは?
いささか早い時刻ではございますが、
飲まなきゃやってられません罠。
(景色が見えても飲むくせに)
搭乗時間は3時間!
新幹線だったらあっちゅう間だけれど、座席が狭い飛行機ではいささかつらいわ。
雲の下へ降りると、青い海が見えましたよ!
石垣空港へ到着。
まずは、空港内を物色。
大量GET!
でもこの時、なにを入手したかを確認せずにいたことが、後での失敗の原因になったのでした。
石垣空港からは、東運輸の石垣バスターミナル行(市内方面)に乗車。
さんぴん茶を飲みながら向かったのでした。
15分ほどバスに乗って、大浜バス停で下車。
バス停の近くにあった前泊商店で、
昼食と“アレ”とを入手。
雨が降ってきやがった!
昼間なのに“アレ”を入手した天罰か?
雨の中を歩いてバス道を引き返し、大浜公民館までやってまいりました。
その大浜公民館のとなりに、神社のようなものを発見!
一見すると、神社のようにも見えるこの施設。
でもこれは神社ではなく、“御嶽”です。
沖縄本島では“ウタキ”と読むそうですが、
石垣島では“オン”なのだそうです。
その御嶽(ウタキ/オン)が神社とはどうちがうのか。
私が調べた限りでは、下記について異なるのだとか。
(一)信仰の対象物が存在しない。
(二)御嶽(オン)が設けられた目的はそれぞれ異なる。
(三)それぞれの御嶽で祀られている神様はすべて異なる。
(四)閉鎖的な場所である。
そうなんです!
ここから、御嶽に関する長い長い解説が始まるのですよ。
(一)信仰の対象物が存在しない。
日本(ヤマト)の神社には本殿にご神体が祀られていて、それを拝殿から拝むことで神様に通じているわけですよね。
しかし御嶽には、拝殿はあっても、ご神体となるものはありません。
ご神体がなければそれを祀る本殿もなく、“イビ(威部)”と呼ばれる自然の空間が信仰の対象なのだそうです。
さらには拝殿すらなく、ただイビとして、原っぱや雑木林だけしかない御嶽さえもあるのだとか。
「 御嶽は、祈りや祭りを行う「祭祀空間」であり、地域の様々な「伝統芸能」を奉納する「文化的空間」でもある。神司(つかさ)の祈りの場である「イビ」には素足でしか入れない御嶽もある。イビは拝殿と繋がっており、森を最も神聖視する祭祀空間となっている。
御嶽には、日本本土の神社で祭礼を行う本殿にあたる拝殿があるが、そこに御神体はない。道教の廟のような神像やご神体もなければ、仏教の仏像や経典のようなものもない。すなわち、御嶽は建築物の中に神象を奉るものではない。そこは、鬱蒼した森に吹く風、鳥、老木の威厳など、五感で体験できる自然信仰の祭祀空間である。同時に、時代や社会を超え、日々の荒波を生きる人々の魂を蘇らせる森の空間でもある。」(※1)
ところで、上記引用文の中に、“神司(つかさ)”という、神に仕える存在が出てまいりました。
この神司(つかさ)は八重山や宮古での呼称で、沖縄本島では“祝女(ノロ)”と称するそうです。
これについて、文献には以下のような記述がありました。
「祭祀をとり仕切るのが、神社ではほとんど男性の神主であるのに対し、沖縄ではどこへいっても、本島ではノロ、宮古・八重山では司(つかさ)と呼ばれる神女であることだ。」(※2)
「本土では一般に、神社での祭りを司る神主や寺の僧侶は男性であるし、神聖な空間への女性の入域を禁止する女人禁制も多くみられる。沖縄は逆で、宗教儀礼を司るのは女性で、女性たちによって祭祀が営まれる御嶽は、原則的に男子禁制である。」(※3)
なお、御嶽には、鳥居や石灯篭が設置されていることがあります。
しかし、「鳥居は、かつてはなかったようだが、最近設けている御嶽がふえてきた。賽銭箱、狛犬の類は、少なくとも私は、御嶽では目にしたことがない。」(※4)とのこと。
「ヤマト風の鳥居や石燈籠や堂々たる神殿など、もともと余計なものであったろう。」(※5)と書かれておりました。
(二)御嶽(オン)が設けられた目的はそれぞれ異なる。
御嶽は沖縄各地に散在するものの、その設置の目的はそれぞれ異なるそうです。
とは言っても、沖縄本島では、御嶽(ウタキ)は「一村落一御嶽という原則」(※6)があるそうですので、御嶽(ウタキ)に祀られる神は、祖先神や村落の守り神だったりすることが想像できます。
一方で石垣島を中心とする八重山地方では、御嶽(オン)は村落の単位に関係なく設けられているとのこと。
そして御嶽(オン)を設けた目的は、御嶽(オン)を設けた人々の都合で決められていたとのこと。
「 『琉球国由來記』では、御嶽という聖地を、「村を愛護する祖霊神、島立神、島守神と、祝福をもたらすニライ・カナイの神、航海守護神などに関係する聖地に限られている」ようだと仲松氏は理解している(仲松弥秀「御嶽」、『沖縄大百科辞典』上、所収、一九八三年)
この中で最も多いのは村(ムラ)愛護神の御嶽で、古い村ならどこにでも見られる。そのほとんどが血縁的な共同体集落にあり、村の宗家に近い聖所につくられ、そこをカナメとして集落が展開している。この点では祖霊を祭る日本(ヤマト)の村の産土(うぶすな)の社(やしろ)に類似している。しかし、御嶽は祖霊崇拝の村愛護神ばかりではない。航海安全を祈る御嶽もあり、ニライ・カナイ神を祀る御嶽もある。」(※7)
“ニライ・カナイ”とは、沖縄や奄美諸島で信じられている伝説の楽土で、そこから年ごとに神様が訪れて豊穣をもたらし、また火や稲、それに島人の祖先もここから渡来して来たと考えられている場所だそうです。
ニライ・カナイの神を祀るとは、そこから渡来する神様をお招きする場所ということでしょうか?
なぜ御嶽(オン)では、このように多種多彩・各別各異なる神様をそれぞれ祀っているのか。
明確な答えは見つかりませんでしたが、(※5)の文献にはその答えを見つける上で手掛かりになりそうな“分類”がありました。
「 私は石垣市で牧野清氏から次のように聞いたことがある。
「御嶽信仰は結局、人間の欲望から出ているものと思います。私は沢山のウタキの実態の研究から自分なりの分類方法を考えついた。それは祭る側の違いからの分類。祭られている神の性質からの分類、それに発生の違いからの分類です。」
(中略)
この牧野分類法を簡略化すると、次のように整理できるだろう。
一、祭る主体からの分類
a、一族による門中御嶽(もんちゅうオン) b、村共同体で祭る御嶽 c、統治者による蔵元御嶽(くらもとオン)
二、祭る神の違いからの分類
a、農業神 b、海神 c、保護神 (ただし、a、b、cを合わせ祀る場合も多い)
三、御嶽発生(成立の事情)の違いからの分類
a、降火崇拝から b、降穀(こうこく)崇拝から c、降星崇拝から d、航海の安全祈願の場所から e、先祖墓、偉人墓から (そせぞれ(ママ)の聖域となった由來は先述した琉球古記録や村に伝わる神話、伝統の類から識別する。)
右の分類からも分るとおり、沖縄の御嶽は日本の産土社とも神社とも同一視できない。村の平安や農作を祈る場であったり、神秘的な降火体験や降星を見た体験などから、聖地と定めて、村の繁栄を祈った場合もある。また竜宮の神に海の安全祈願や豊漁を祈ったウタキもある。じっさいに石垣島のウタキ(ママ)を回って、年間の祭祀がどのように行われているかを見ても、その性質の多様さが分る。」(※8)
上記の分類以外にも、「“牛馬繁盛”」(※9)を祈願したり、さらには「“雨乞限定”」(※9)の御嶽(オン)もあるそうですよ。
ここからは、私の推測です。
神社には神話があり、寺院には開祖と教義とがあって、その霊験にあやかって各地へ伝播していますよね。
でも御嶽(オン)は、その土地の人々がかつて特定の事象(身の危険・飢饉・不漁・悪天候など)で困っていた歴史があって、その事象を乗り越えるために神様の力を借りたいという、生活に密着した都合で設けられているわけなのでしょうね。
それ故、石垣島など八重山地方における「御嶽信仰は結局、人間の欲望から出ているもの」(※7)と言えるのでしょう。
(三)それぞれの御嶽で祀られている神様はすべて異なる。
このように御嶽(ウタキ/オン)は特定の村落共同体のために(ウタキ)、あるいはその土地の人々の都合や欲望で設けられている(オン)ことから、そこに祭られている神様は一つひとつ異なるものなのだとか。
それ故、日本(ヤマト)の神社のように、複数の神社で同じ神々(天照大神・天神・八幡神・稲荷神など)を祀ることはめったにないそうです。
「 御嶽の神は、御嶽ごとに違い、同じ神名はめったになく、神社にあって素戔嗚尊が日本全国至るところで祀られている如き、同じ神が複数の御嶽に祀られている例はめったにない。これは、それぞれの神が、その土地固有の、土地と深く結びついたた神であることの証左でもあろう。」(※10)
(四)閉鎖的な場所である。
日本(ヤマト)の神社では、もちろん聖域として立ち入りを禁ずる場所はあっても、一般人の参拝を拒むということはまずないと思います。
しかし御嶽は、上述のとおり、ごく狭い範囲の集団のために設けられている施設であることから、その集団に属さない人々の参拝を拒む例が少なくないそうです。
それ故、もちろんイビへの立ち入りは厳禁であるのみならず、たとえ参拝目的であったとしても一般人による域内への立ち入りを拒否する旨を入口で掲示している御嶽もあるのだとか。
観光客には立ち入ってもらいたくないのに、勝手に入って来てしまうので困っている御嶽もあるそうですよ。
ましてや、(一)で紹介した、拝殿すらなく原っぱや雑木林のイビだけが存在する御嶽は、管理がものすごく難しいことでしょう。
そもそもそこへ立ち入る観光客ら島外の人々が、そこを御嶽であると認識できない場所もあるかと推測いたします。
今回、私が引用した文献(※1)の序文のさらに前には、以下の注意書きがありました
「 御嶽は、祭祀の日以外、地域の人々も畏れて立ち入る事を謹む聖地であり、祈りの空間です。
御嶽の現状を変えることや境内のものを持ち去ることは、神罰が下されると伝えられて固く禁じられております。
御嶽によって、許可なく入ることを禁じた看板もあります。
長い間、深い信仰心で守られた御嶽に敬意の心を忘れず、入る際は、地域の方に確認しましょう!」(※11)
と、いうことで、
今回の徘徊では、以下の通りといたしました。
1:御嶽(オン)の域内には入らず、外からの参拝・撮影に留めました。
2:域内への立ち入りが許されていることが明白な場合は、入って参拝させていただきました。
3:2:の場合でも、イビへは入りませんでした(男子禁制)。
それでは、ここ大浜にある御嶽から。
黒石御嶽(グリシオン)。
鳥居は、もともとは御嶽にはなかったことは先述いたしました。
しかし、今回立ち寄った石垣島の御嶽には、ほぼ付いておりましたよ。
拝殿。
拝殿の背後には、イビを画するものと思われる石垣を確認することができました。
海が見えてまいりました。
大石御嶽。
黒石御嶽のとなりにありました。
大石御嶽の隣には、
今回の旅でぜひともご尊顔を拝し奉りたかった御仁が!
この人は、
“オヤケアカハチ”。
このオヤケアカハチなる人物は、
いったいどういう人だったのでしょうか?
まずは、この一文から。
「琉球王朝の第二尚氏、尚真王氏(ママ)時代、つまり西暦一五〇〇年前後、八重山の大浜在住のオヤケアカハチが反乱した。」(※12)
ここからは、オヤケアカハチが、
琉球王府に対して反乱を起こした首謀者だったということがわかります。
なお、
“第二尚氏”とありますが、いわゆる琉球王府の王家(尚氏)は、琉球統一から琉球処分まで、一統ではなかったのです。
中山王だった尚巴志(第一尚氏)が北山と南山とを攻略して琉球を統一するものの、その後、第一尚氏7代目のとき、尚氏の家臣だった金丸かなまるがクーデターによって王座に就き、尚円王と名乗って尚氏の姓を継ぎました(第二尚氏)。
この第二尚氏が、明治政府による琉球処分まで琉球を統治したのでした。
話をオヤケアカハチへ戻します。
オヤケアカハチとは、当時の「石垣島の大浜地区の支配者」(※13)であって、「波照間島生まれのオヤケアカハチは、大望を抱き一時、竹富島に移り住むが、竹富島を経由して、石垣島の大浜に居住することになる。大浜では人々の信頼を受け酋長になったという。」(※14)とあるとおり、
ここ大浜一帯を支配領域とするいわゆる豪族だったわけです。
当時は八重山諸島は琉球王府の支配を受けており、島民に対して重税を課していたとのこと。
「大きな島の石垣島でも、琉球王朝に取入っている親方衆を除いて農漁民たちは貧しい生活を喘いでおり、アカハチは、その味方をせずにはいられなくなる。
彼は、農漁民窮迫の真因は王府の定めた年貢の高いことにあると考え、その減免を願い出たが、王府に取入っている島の有力者=長田大翁主ながたのうふしゆは激怒した。」(※15)
ちなみにこの長田大翁主さん、オヤケアカハチ暗殺のために自分の妹である古乙姥 くいつば をオヤケアカハチの嫁に差し出したそうです。
ところがこの古乙姥さん、なんとオヤケアカハチに心底惚れ込んでメロメロになってしまい、計画は実現しなかったのだとか。
オヤケアカハチは「琉球王府の正式の記録である『球陽』には三年間も貢納しなかったというのである」(※16)とあるものの、いつまでも拒否し続けることができず、実力行使へ。
「アカハチはついに長田大翁主を討ちにかかった。急襲したといわれる。この戦で、長田の二人の弟、那礼塘なれとう、那礼嘉佐成なれかさなりは殺された。長田はかろうじて難を逃れ、西表島の古見こみに落ちのびた。」(※17)
一旦は勝利したかに見えたオヤケアカハチ。
しかし、「一五〇〇年二月二日に、首里王府は軍勢を出した。軍船の数を、『球陽』は四六艘とし、尚真王の事蹟を伝えた『百浦添欄干の銘』には一〇〇艘としている。兵の数を『球陽』は三〇〇〇余としている。」(※17)とあるとおり、王府が大軍勢を率いて掃討に乗り出し、「王府軍が上陸したら、なにしろ多勢に無勢で勝負はきまっていた。アカハチらは善戦もむなしく、ここに憤死したのである。」(※18)との結末を迎えたのでした。
今でも大浜に暮らす人々にとっては、自分たちの先祖とともに歩み、ともに汗をかいて働き、先祖のために戦ってくれたオヤケアカハチは、大浜の英雄であるとお考えなのでしょう。
その想いが、この像の建立に至ったのかもしれません。
オヤケアカハチ像の向かって右側にも、御嶽がありました。
手元にある文献には記載がなかった御嶽。
ネット上では、火の神御嶽(ビィナカンオン)と紹介されておりました。
崎原御嶽(サキバルオン、サキィバルオン)
この奥がイビかな?
ここからは、道をそれて進んでいくと、
出た!
沖縄名物“野良ポトス”。
しかもデカい!
観葉植物のやつとは比べ物にならないね。
さらに進んで行くと、
クワズイモ?
八丈島でも見たけれど、密集度合いがぜんぜんちがう。
あぎじゃびよい!(うわ!)
ぬーやるばーがー。(なんということだ。)
一月だというのに、アサガオが咲いているよ!!
これまたデカい石だこと。
それに木が生えとるがね。
津波大石だってさ。
流されて来たのね。
階段が付いてはいましたが、
イビである可能性もあるので、上がるのは止めました。
津波大石の隣にあるのが、
オヤケアカハチの碑。
オヤケアカハチさんと奥さん(古乙姥 くいつば さん)とが並んで祀られておりました。
古乙姥さんの碑は、かつては別の場所にあったみたいですね。
碑文を乗せておきますが、
気になるとこを抜粋して紹介します。
へー!
日本(ヤマト)では明治維新後までなかった自由民権運動が、ここ石垣島では室町年代にはすでに始まっていたの???(自由民権って表現はどうかと思うな・・・。)
石垣島での自由民権運動に関心していたら、
雨がやみましたよ!
いよいよ海へ。
大浜海岸。
岩場なので海水浴ができない大浜海岸。
観光地ではないせいか、誰もいない。
ここも、何らかの祈りの場だったらしい。
(ネット上では、東崎浜(カースンヤー浜)の願所と紹介されておりました。)
石を並べた祈りの場。
そういえばこういう祈りの場、
↓郷ノ浦港(長崎県壱岐市)でも見たよ。
(壱岐郷ノ浦港にて)
砂が白いね!
オイラの家の近所にある人工海浜(東京湾)とはぜんぜんちがう。
砂地のとなりには、珊瑚でいっぱいの場所がありました。
ワタクシは今、無数に横たわる動物の死骸の上を踏みつけて歩いているわけでございます。
珊瑚の次は、岩場。
地層が見えていますね。
その岩場の一角に、
波で浸食されたと思われる割れ目がありました。
その岩の割れ目の上にあるのが、
これ!
オヤケアカハチの足跡なんだってさ。
それにしても、静かな海。
晴れていたら青色がもっと鮮やかだったことでしょう。
時刻は午後一時。
腹が減ってまいりました。
前泊商店さんで買ってきた、
じゅーしーおにぎりとフライのセット(¥130-)を、
オリオンゼロライフとともにいただきます。
まずは、石垣島に嘉例(かりー:乾杯)!
“じゅーしー”は、沖縄の炊き込みご飯。
豚肉が入っていて、味がしっかり!
でも豚の脂で手がベトベト。
このフライも、ラードを使っているのかな?
なにもつけなくても十分においしい!
くわっちーさびたん!
まーさんでした。
天気も良くなりつつあるので、
中心地を目指して、西へと歩いて行きました。
それにしても、蒸し暑い!
雨が降ってすぐに止み、日が差してきたからでしょう。
一月だというのに、こんな格好でも汗だくでした。
フクギだ!
沖縄の街路樹の代表格ですね。
沖縄では、
丁字路の突き当りには、
石敢當(いしがんとう)があるのが当たり前。
魔除けだそうですね。
シーサーもいるさー。
守り神だもんね。
私としては、赤瓦屋根の上にいる印象が強かったシーサー。
建物が高層化するにつれて、門番へと役割を変えつつあるのかな?
ベニデマリ?、サンタンカ?
これも沖縄の街路樹でよく見かけますね。
しばらく歩くと、公園らしき場所を発見。
でもこれって、御嶽だね!
(安居御嶽(アングンオン))
ここは鳥居をくぐって参拝させていただきました。
公園の一部になっているわけですから、どう見ても参拝してもよいタイプのやつでしょ!
側面から、イビや石碑が丸見えでした。
さらに歩いて行くと、
糸数御嶽(イトゥカジオン)。
航海安全を祈った御嶽だってさ。
拝殿は、あまり手が加えられていない様子。
これは入ってはいけないやつでしょう。
側面からは、イビが丸見え。
イビの奥(西側)は道路に面しており、
石垣越しに、祭壇のようなものがあることが確認できました。
これも御嶽。
天川御嶽(アーマーオン)。
域内には遊具があるし、
説明版もあったので、
参拝可能と判断し、域内に入って拝ませていただきました。
拝殿の背後には。イビとの結界が。
ここへは近づきませんでした。
さらに歩くと、また御嶽らしき森を発見。
いきなりイビとの結界が!
西側へ回ると、鳥居がありました。
美崎御嶽(ミシャギオン、ミサキィオン、クギオン)
オイラには、よそ者の立ち入りを拒んでいるような佇まいだと感じました。
拝殿。
鳥居の手前から中を眺めていたら、
勝手に入り込んで写真を撮っているいい歳したおっさんがいたよ。
オイラの姿を見たら、隠れやがった。
ということは、こいつ確信犯だな。
信仰している人たちの気持ちを蹂躙するな!
ホテルに到着。
予約してあるお店の開店時刻は午後6時。
それまでは、チト早すぎ。
繁華街であるユーグレナモールを徘徊。
3種GET!
でもこれ、全部重複でした。
空港で入手したものを確認しなかったツケが回ってきたのでした。
徘徊していると、いい時間になりました。
今日は、“居酒屋ぶーやー”さんへ。
まずはオリオン!
くわっちーさびら。
ニガナの白和え。
あたしゃどうしてもこれを食べたくて、ぶーやーさんを選んだのでした。
苦味あるが、けっして嫌な苦味ではない。
むしろ青みがほどよくて爽やか。
それにごま油が香ばしいね。
やみつき塩ダレきゅうり。
梅と鰹節風味。
鰹節の味が濃くて、ビールが進む。
それにやっぱり、地方へ来ると野菜がおいしい!
目の前には、石垣島産の泡盛が勢ぞろい。
白百合を水割りでいただきました。
含むと華やかな香りかすかに感じます。
割ってあるのに、米の風味に厚みがありました。
黒麹の香ばしさは弱め。
割ってあるせいか、けっこう飲みやすいわ。
マグロの刺身。
これはおいしい!
臭みはなく、水っぽさもない。
オイラの家の近所にあるスーパーで売っているやつとはぜんぜんちがう!
宮之鶴をロックで。
ピリあるけれど、強くない。
かなり辛口で、キリッとしていますよ。
でも、黒麹の香ばしさ効いていて、飲み応えを感じました。
くわっちーさびたん!
おいしかった!
念願のニガナ白和え、食べることが叶って大満足でした。
二軒目は、石垣島ヴィレッジへ。
ここは小さな店舗が集合している、酒好きにはたまらない場所。
“たたんばぁ”さんへ。
そういえば、宮崎にもお店がありましたね。
一杯目は、請福イムゲー。
香りが華やか。芋の風味穏やかで香ばしく、甘味もはっきりしています。
なお、「イムゲーって何?」とお思いの御仁は、こちらをご参照くださいな。
ポテトサラダをつまみつつ。
二杯目は、島うらら。
石垣産の米で造った泡盛は、米の風味が豊かで、黒麹の香ばしさがおだやかでした。
泡盛と言えばタイ米使用が一般的ですが、地元産のお米で造ったものもあるのね。
甘辛肉団子(3個100円)。
これ、ショウガが効いていてものすごくおいしい!
三杯目は、赤馬。
南国のお酒っぽい華やかな香りがしっかり。
黒麹の香ばしさは穏やかでした。
くわっちーさびたん!
たたんばぁさん、宮崎でも石垣島でも大満足でした。
こうして、石垣島での一日目は、終わりを告げたのでした。
★☆2024年1月20日(土)★☆
翌朝も、やや曇り気味。
まずは街の西側へ歩いて行ったのでした。
御嶽を発見!
長田御嶽(ナーターオン)
一説によれば、長田大翁主ながたのうふしゆ(オヤケアカハチに攻められて西表島へ逃げた人)の一族を祀ってあるとか。
ガジュマルのアーチを発見!
すごいね。
根っこがさ、タイルの目地に沿って網目状に伸びていましたよ。
土がある場所が本能的にわかるんだね。
桃林寺へ。
1614年(慶長19年)開山の古刹。
大坂冬の陣が起きた年ですよ!
本堂で合掌。
境内を散策していたら、
「こんなところにあっていいの?」
と思うものを発見。
これ、
厨子甕(ジーシガーミ:琉球様式の骨壺)ですよね。
遺体を風葬した後、洗骨した骨を納めるやつですよ。
誰か入っているのかな?
「地球上の生きとし生けるもの、草も木も山も川もすべてのものは、お互いに恩恵をうけ、また与えあっている同じ船の客である」という禅語なんだってさ。
平成26年に整備しなおした記念の碑でした。
その背後には、墓石らしきものが並んでおりました。
手元にある文献(下郡剛編著『近世琉球寺院の原風景を追う―石垣島桃林寺の墓碑と三牌―』2015.3 日本史史料研究会)によれば、かつてここには僧侶の墓地があったそうです。
それを上記のとおり整備しなおしたのだとか。
墓石らしきものは、その当時に移設した墓石だそうです。
にゃんこ登場!
遊んでくれました。
ありがとうね。
これも御嶽か?
由来が記された碑があったので、入ってよろしいと解釈いたしました。
入らなきゃ読めませんからね。
八重山キリシタン事件殉教の地だって。
十字の紋が印象的。
これも御嶽の一つ(元宮良の主の御嶽(ムトゥメーラヌシューヌオン))に数えるみたいでした。
本日の折り返し地点まで到達。
長崎御嶽(ナースクオン、ナーサキィオン)
神域へ入れそうな気配はなし。
それ故、鳥居の手前から参拝させていただきました。
でもこの長崎御嶽、隣が公園になっていたのでした。
それ故、イビが丸見えでした。
長崎御嶽からは、今朝来た道の一本南側の道を通って、東へ折り返しました。
途中で立ち寄った酒屋さんで、瑞泉の古酒を見つけてGET!
100mlで600円だってさ。
途中で北へ進路を変更し、さらに歩いていると、
なにやら御嶽のようなものを発見!
へー!
長田大翁主霊だってさ。
またしても出てきた、オヤケアカハチの関係者。
八重山農林高校の一角に、
とある頌徳碑を発見!
うわ!
これ、
このブログではものすごく重要!
ものすごく重要なので、文字に起こしました。
「波照間髙康ハ大史姓第五代目ノ大偉人デ西暦一六九四年(元禄七年)西表首里大屋子時代公用デ首里ヘ出張セラレ公務ヲ終エテ八重山ヘ帰ル途中台風ニ遇イ清國ノ鎮海二漂着シタガ幸ニ厦門将軍大老爺ト面会シ「黄ハンス芋」ノ貴重ナル食糧作物タルコトヲ始メテ知リ其ノ種子ヲ頂キ大事ニ持ッテ琉球本島ニ安着シ直チニ薯種子ヲ垣花ニ仮植シ琉球本島ヘモ分ケ與エソレカラ無事ニ帰郷シテ移植シタノガ八重山ニ於ケル甘藷伝來ノ初メデアル爾來八重山ハ凡ユル災難ニ遭ツテモ芋ノ惠ミニヨツテ救世セラレテキタノデアルココニ於テ島民ハ芋ノ恩惠ニ浴スルト共ニ翁ノ偉功ノ崇髙ナルヲ深ク肝銘シタノデアル翁ハ八重山産業ノ大恩人デアリ其ノ偉德ハ永ク後世ノ亀鑑トナル茲ニ全住民ノ喜捨浄財ニヨリ碑ヲ建テ其ノ功德ヲ賛仰スル次第デアル」
このことは、手元にあった文献でも紹介されておりました。
さつまいもが大陸から琉球へ伝来したルートは複数あるみたいで、そのうちの一つらしい。
このブログでは、かつて、
さつまいもの伝来について、
琉球から薩摩へ伝えた、前田利右衛門さん。
薩摩から八丈島へ伝えた、菊池親子。
の2例を紹介してまいりました。
そして今、ここに、
大陸(清国)から八重山へ伝えた波照間高康さんの例が追加されたのでした。
めでたし、めでたし!
(自己満足だな)
さつまいものことを考えていたら、腹が減ってまいりました。
そこで向かったのは、知念商会さん。
知念商会さんと言えば、
“オニササ”ですよね。
ささみフライ(¥200)を取って、
おにぎり(¥80)を取って、
あいだにソースをかけて、
袋を裏返して、
ギューッ!
オニササのできあがり。
おにぎりとささみフライとをギューッとするから、オニササ。
でーじまーさん!(とてもおいしい!)
ささみがやわらかくて、衣がカリカリ!
お米はつやつやした炊き方で最高!
その両者がギューッで熟(な)れた感じがとてもおいしい。
これにはビールやな、ビール!
(なんで2回言うんだよ)
オニササで、お腹も心も満たされました。
知念商会さんから進路を南へ戻した酔っぱらい。
さらに歩いていると、
小学校に出くわしました。
その一角に、奉安殿を発見!
戦前戦中にかけて建てられた、御真影(天皇皇后の写真)と教育勅語とをしまっておくための倉庫。
かつて筑波鉄道筑波線の真壁駅跡で見かけて以来のご無沙汰でした。
さらに歩いていると、路地の奥に鳥居を発見。
手元にある文献には記載なし。
ネット上では、岸若御嶽(キツィパカオン)と紹介されておりました。
小さな御嶽でした。
ユーグレナモールへ戻ってまいりました。
そこで、これらをGET!
これらは石垣島産ではごさいませんが、初見故にGETいたしました。
ホテルへ戻ってきた酔っぱらい。
二日間の成果を梱包し、
郵便局から発送。
これだけあると、飛行機の機内へ持ち込めないでしょうからね。
その後徘徊を再開していたら、雑貨店を発見。
FILさん。
あーあ、
また悪いクセが出てしまった(¥1,650-)。
連れて帰って来てしまったのでした。
.
時刻はいささか早めでしたが、
飲み始めることにいたしました。
730交差点。
その北側にあった、73バルさんへ。
730円で三杯飲めるんだってさ。
ただしビールは+90円。
まずはオリオン生。
歩き回ったせいか、いっそうおいしい!
マカロニサラダを頼んだら、
「ハーフにしたほうがいい。」と言われて、従ったのですが、
この量でハーフって、いったい?
カレー味で、チリ少し。
これは酒が進んでしまうやつですぞ!
スパムも入っとるがや。
水菜が出てきてこんにちは。
枝豆も、一人前にしてはけっこうな量でしたよ。
二杯目は、宮之鶴をソーダ割りで。
かなり軽い、スイスイと行けてしまいました。
三杯目は、請福ソーダ割り。
黒麹の風味が穏やかながらも効いておりました。
くわっちーさびたん!
¥1,600台でした
ここで引き揚げるには、いささか早すぎ。
そこで今日も、石垣島ヴィレッジへ。
せんべろ風土さんへ。
1,000円で三杯+小鉢のシステム。
ただしビールは一杯のみ利用可。
ここでもまずはビールから。
ゆし豆腐。
豆の味が濃いね。
柴漬け食べたい!(山口美江より)。
八重山かまぼこ。
赤坂小町!
じゃなかった、プリプリ!
二杯目は、請福ロック。
おいしい!
麹の香りほんのり
苦味少しあって、黒麹の香ばしさはっきり。
甘みもほんのり感じました。
アジフライ。
揚げたてに限る!
三杯目は、於茂登ロック。
アルコール香かすか。甘くて苦味が鋭い。麹香り弱め。
これもおいしいね。
くわっちーさびたん!
¥1,800台でした。
まだ明るいですけれど、
けっこう飲んだので、これで退散。
ホテルへ戻ったのでした。
こうして、石垣島での二日目は、終わりを告げたのでした。
★☆2024年1月21日(日)★☆
三日目の朝。
雨でした。
最終日は、昼の便で成田へ戻る予定でした。
そこでまずは、730交差点を渡って、
バスターミナルの位置を確認したのですが、
戻ろうとしたら、
マラソンが始まっていて戻れず。
しかたがない。
戻れないとわかったからには、そりゃ、
たとえ朝であっても、
飲むしかしかたがありません罠。
9時発のバスに乗ろうとしたのですが、
運転手さんが到着したのが3分後で、出発が4分後。
沖縄の人は、ゆっくりだねぇ。
しかもバスは、マラソン渋滞に引っかかって動けやしない。
なんとか石垣空港にたどり着いたのですが、
通常では30分ほどの行程のはずなのに、
一時間近くかかってしまったのでした。
腹が減ったので、早めの昼食。
そういえば、石垣島へ来たのに、八重山そばを食べていませんでした。
魚の出汁がおいしい。
丸麺で、噛み応えしっかり。
もちろんビールにも合う!
くわっちーさびたん!
帰りもpeach
石垣島よ、さようなら。
生きてさえいれば、また来られるだろう。
この日も窓から見えたのは雲ばかり。
しかたがないので、ビールを飲みながら帰ったとさ。
その日の夜のこと・・・。
昨日送ったばかりの荷物が、
もう届いちゃった!
成果を無事、回収することができたのでした。
めでたし、めでたし!
【引用した文献】
(※1)李春子『八重山の御嶽-「祈り」と「祭り」の祭祀空間』p.130(李春子編著『八重山の御嶽-自然と文化』p.130-199 2019.3 榕樹書林)
(※2)岡谷公二『沖縄の聖地 御嶽 神社の起源を問う』p.12(2019.2 平凡社新書905)
(※3)赤嶺政信監修『沖縄の神と食の文化』p.23(2003.4 青春出版社プレイブックスインテリジェンスPI-055)
(※4)(※2)p.8-12
(※5)色川大吉『御嶽信仰と祖先崇拝-八重山群島石垣島の場合-』p.150(東京経済大学人文自然科学論集 通号94 p.162-150 東京経済大学人文自然科学研究会)
(※6)(※3)p.24
(※7)(※5)p.162
(※8)(※5)p.162-161
(※9)藤井佐美『石垣島の御嶽と説話-四箇の伝承事例を中心に-』p.146-148四箇御嶽一覧表より(説話・伝承学 20巻 p.144-160 2012.3 説話・伝承学会)
(※10)(※2)p,17-18
(※11)(※1)p.2
(※12)丸山顯德『沖縄八重山のオヤケアカハチの戦い』p.228-229(アジア遊学 189号 p.228-232 2015.09 勉誠出版)
(※13)大城立裕『琉球の英傑たち』p.147(1992.10 プレジデント社)
(※14)(※12)p.230
(※15)上笙一郎『日本植民地児童文学史 稿・30 叙事詩『オヤケ アカハチ』の役割 -琉球=沖縄篇(4)の下』p.36(日本古書通信 第982号 p.36-37 2011.5 日本古書通信社)
(※16)(※12)p.229
(※17)(※13)p.156
(※18)(※13)p.157
石垣島には、泡盛の蔵元さんが6軒ございます。
「石垣島産の泡盛の小瓶を集めてやろう!」
「運がよければ、カップ泡盛にも出会うかも!」
と思いつつ、出かけてまいりました。
なお、いつものごとく、旅の記事はかなり長めになっております。
また今回は、ただでさえ長い記事の中に、専門用語の解説を2度設けております。
石垣島の文化にご興味がおありの御仁はともかく、かならずしもそうではない皆さまにおかれましては、どうかテキトーに流してお読みいただき、ときどき鼻でクスリと笑っていただければ幸甚です。
★☆2024年1月19日(金)★☆
今回は、京成電鉄検見川駅から。
拙宅から成田空港へ公共交通機関で向かった場合、京成利用が最も早いとわかったもので。
京成津田沼駅と宗吾参道駅とで乗りかえて、
成田空港駅に到着。
成田空港から乗ったのは、
peach石垣空港行MM531便。
飛びます、飛びます!(坂上二郎さんより)
いいえ、もう飛んでいます。
あーあ、がっかり!
窓から見える景色は、雲ばっかり。
と、いうことは?
いささか早い時刻ではございますが、
飲まなきゃやってられません罠。
(景色が見えても飲むくせに)
搭乗時間は3時間!
新幹線だったらあっちゅう間だけれど、座席が狭い飛行機ではいささかつらいわ。
雲の下へ降りると、青い海が見えましたよ!
石垣空港へ到着。
まずは、空港内を物色。
大量GET!
でもこの時、なにを入手したかを確認せずにいたことが、後での失敗の原因になったのでした。
石垣空港からは、東運輸の石垣バスターミナル行(市内方面)に乗車。
さんぴん茶を飲みながら向かったのでした。
15分ほどバスに乗って、大浜バス停で下車。
バス停の近くにあった前泊商店で、
昼食と“アレ”とを入手。
雨が降ってきやがった!
昼間なのに“アレ”を入手した天罰か?
雨の中を歩いてバス道を引き返し、大浜公民館までやってまいりました。
その大浜公民館のとなりに、神社のようなものを発見!
一見すると、神社のようにも見えるこの施設。
でもこれは神社ではなく、“御嶽”です。
沖縄本島では“ウタキ”と読むそうですが、
石垣島では“オン”なのだそうです。
その御嶽(ウタキ/オン)が神社とはどうちがうのか。
私が調べた限りでは、下記について異なるのだとか。
(一)信仰の対象物が存在しない。
(二)御嶽(オン)が設けられた目的はそれぞれ異なる。
(三)それぞれの御嶽で祀られている神様はすべて異なる。
(四)閉鎖的な場所である。
そうなんです!
ここから、御嶽に関する長い長い解説が始まるのですよ。
(一)信仰の対象物が存在しない。
日本(ヤマト)の神社には本殿にご神体が祀られていて、それを拝殿から拝むことで神様に通じているわけですよね。
しかし御嶽には、拝殿はあっても、ご神体となるものはありません。
ご神体がなければそれを祀る本殿もなく、“イビ(威部)”と呼ばれる自然の空間が信仰の対象なのだそうです。
さらには拝殿すらなく、ただイビとして、原っぱや雑木林だけしかない御嶽さえもあるのだとか。
「 御嶽は、祈りや祭りを行う「祭祀空間」であり、地域の様々な「伝統芸能」を奉納する「文化的空間」でもある。神司(つかさ)の祈りの場である「イビ」には素足でしか入れない御嶽もある。イビは拝殿と繋がっており、森を最も神聖視する祭祀空間となっている。
御嶽には、日本本土の神社で祭礼を行う本殿にあたる拝殿があるが、そこに御神体はない。道教の廟のような神像やご神体もなければ、仏教の仏像や経典のようなものもない。すなわち、御嶽は建築物の中に神象を奉るものではない。そこは、鬱蒼した森に吹く風、鳥、老木の威厳など、五感で体験できる自然信仰の祭祀空間である。同時に、時代や社会を超え、日々の荒波を生きる人々の魂を蘇らせる森の空間でもある。」(※1)
ところで、上記引用文の中に、“神司(つかさ)”という、神に仕える存在が出てまいりました。
この神司(つかさ)は八重山や宮古での呼称で、沖縄本島では“祝女(ノロ)”と称するそうです。
これについて、文献には以下のような記述がありました。
「祭祀をとり仕切るのが、神社ではほとんど男性の神主であるのに対し、沖縄ではどこへいっても、本島ではノロ、宮古・八重山では司(つかさ)と呼ばれる神女であることだ。」(※2)
「本土では一般に、神社での祭りを司る神主や寺の僧侶は男性であるし、神聖な空間への女性の入域を禁止する女人禁制も多くみられる。沖縄は逆で、宗教儀礼を司るのは女性で、女性たちによって祭祀が営まれる御嶽は、原則的に男子禁制である。」(※3)
なお、御嶽には、鳥居や石灯篭が設置されていることがあります。
しかし、「鳥居は、かつてはなかったようだが、最近設けている御嶽がふえてきた。賽銭箱、狛犬の類は、少なくとも私は、御嶽では目にしたことがない。」(※4)とのこと。
「ヤマト風の鳥居や石燈籠や堂々たる神殿など、もともと余計なものであったろう。」(※5)と書かれておりました。
(二)御嶽(オン)が設けられた目的はそれぞれ異なる。
御嶽は沖縄各地に散在するものの、その設置の目的はそれぞれ異なるそうです。
とは言っても、沖縄本島では、御嶽(ウタキ)は「一村落一御嶽という原則」(※6)があるそうですので、御嶽(ウタキ)に祀られる神は、祖先神や村落の守り神だったりすることが想像できます。
一方で石垣島を中心とする八重山地方では、御嶽(オン)は村落の単位に関係なく設けられているとのこと。
そして御嶽(オン)を設けた目的は、御嶽(オン)を設けた人々の都合で決められていたとのこと。
「 『琉球国由來記』では、御嶽という聖地を、「村を愛護する祖霊神、島立神、島守神と、祝福をもたらすニライ・カナイの神、航海守護神などに関係する聖地に限られている」ようだと仲松氏は理解している(仲松弥秀「御嶽」、『沖縄大百科辞典』上、所収、一九八三年)
この中で最も多いのは村(ムラ)愛護神の御嶽で、古い村ならどこにでも見られる。そのほとんどが血縁的な共同体集落にあり、村の宗家に近い聖所につくられ、そこをカナメとして集落が展開している。この点では祖霊を祭る日本(ヤマト)の村の産土(うぶすな)の社(やしろ)に類似している。しかし、御嶽は祖霊崇拝の村愛護神ばかりではない。航海安全を祈る御嶽もあり、ニライ・カナイ神を祀る御嶽もある。」(※7)
“ニライ・カナイ”とは、沖縄や奄美諸島で信じられている伝説の楽土で、そこから年ごとに神様が訪れて豊穣をもたらし、また火や稲、それに島人の祖先もここから渡来して来たと考えられている場所だそうです。
ニライ・カナイの神を祀るとは、そこから渡来する神様をお招きする場所ということでしょうか?
なぜ御嶽(オン)では、このように多種多彩・各別各異なる神様をそれぞれ祀っているのか。
明確な答えは見つかりませんでしたが、(※5)の文献にはその答えを見つける上で手掛かりになりそうな“分類”がありました。
「 私は石垣市で牧野清氏から次のように聞いたことがある。
「御嶽信仰は結局、人間の欲望から出ているものと思います。私は沢山のウタキの実態の研究から自分なりの分類方法を考えついた。それは祭る側の違いからの分類。祭られている神の性質からの分類、それに発生の違いからの分類です。」
(中略)
この牧野分類法を簡略化すると、次のように整理できるだろう。
一、祭る主体からの分類
a、一族による門中御嶽(もんちゅうオン) b、村共同体で祭る御嶽 c、統治者による蔵元御嶽(くらもとオン)
二、祭る神の違いからの分類
a、農業神 b、海神 c、保護神 (ただし、a、b、cを合わせ祀る場合も多い)
三、御嶽発生(成立の事情)の違いからの分類
a、降火崇拝から b、降穀(こうこく)崇拝から c、降星崇拝から d、航海の安全祈願の場所から e、先祖墓、偉人墓から (そせぞれ(ママ)の聖域となった由來は先述した琉球古記録や村に伝わる神話、伝統の類から識別する。)
右の分類からも分るとおり、沖縄の御嶽は日本の産土社とも神社とも同一視できない。村の平安や農作を祈る場であったり、神秘的な降火体験や降星を見た体験などから、聖地と定めて、村の繁栄を祈った場合もある。また竜宮の神に海の安全祈願や豊漁を祈ったウタキもある。じっさいに石垣島のウタキ(ママ)を回って、年間の祭祀がどのように行われているかを見ても、その性質の多様さが分る。」(※8)
上記の分類以外にも、「“牛馬繁盛”」(※9)を祈願したり、さらには「“雨乞限定”」(※9)の御嶽(オン)もあるそうですよ。
ここからは、私の推測です。
神社には神話があり、寺院には開祖と教義とがあって、その霊験にあやかって各地へ伝播していますよね。
でも御嶽(オン)は、その土地の人々がかつて特定の事象(身の危険・飢饉・不漁・悪天候など)で困っていた歴史があって、その事象を乗り越えるために神様の力を借りたいという、生活に密着した都合で設けられているわけなのでしょうね。
それ故、石垣島など八重山地方における「御嶽信仰は結局、人間の欲望から出ているもの」(※7)と言えるのでしょう。
(三)それぞれの御嶽で祀られている神様はすべて異なる。
このように御嶽(ウタキ/オン)は特定の村落共同体のために(ウタキ)、あるいはその土地の人々の都合や欲望で設けられている(オン)ことから、そこに祭られている神様は一つひとつ異なるものなのだとか。
それ故、日本(ヤマト)の神社のように、複数の神社で同じ神々(天照大神・天神・八幡神・稲荷神など)を祀ることはめったにないそうです。
「 御嶽の神は、御嶽ごとに違い、同じ神名はめったになく、神社にあって素戔嗚尊が日本全国至るところで祀られている如き、同じ神が複数の御嶽に祀られている例はめったにない。これは、それぞれの神が、その土地固有の、土地と深く結びついたた神であることの証左でもあろう。」(※10)
(四)閉鎖的な場所である。
日本(ヤマト)の神社では、もちろん聖域として立ち入りを禁ずる場所はあっても、一般人の参拝を拒むということはまずないと思います。
しかし御嶽は、上述のとおり、ごく狭い範囲の集団のために設けられている施設であることから、その集団に属さない人々の参拝を拒む例が少なくないそうです。
それ故、もちろんイビへの立ち入りは厳禁であるのみならず、たとえ参拝目的であったとしても一般人による域内への立ち入りを拒否する旨を入口で掲示している御嶽もあるのだとか。
観光客には立ち入ってもらいたくないのに、勝手に入って来てしまうので困っている御嶽もあるそうですよ。
ましてや、(一)で紹介した、拝殿すらなく原っぱや雑木林のイビだけが存在する御嶽は、管理がものすごく難しいことでしょう。
そもそもそこへ立ち入る観光客ら島外の人々が、そこを御嶽であると認識できない場所もあるかと推測いたします。
今回、私が引用した文献(※1)の序文のさらに前には、以下の注意書きがありました
「 御嶽は、祭祀の日以外、地域の人々も畏れて立ち入る事を謹む聖地であり、祈りの空間です。
御嶽の現状を変えることや境内のものを持ち去ることは、神罰が下されると伝えられて固く禁じられております。
御嶽によって、許可なく入ることを禁じた看板もあります。
長い間、深い信仰心で守られた御嶽に敬意の心を忘れず、入る際は、地域の方に確認しましょう!」(※11)
と、いうことで、
今回の徘徊では、以下の通りといたしました。
1:御嶽(オン)の域内には入らず、外からの参拝・撮影に留めました。
2:域内への立ち入りが許されていることが明白な場合は、入って参拝させていただきました。
3:2:の場合でも、イビへは入りませんでした(男子禁制)。
それでは、ここ大浜にある御嶽から。
黒石御嶽(グリシオン)。
鳥居は、もともとは御嶽にはなかったことは先述いたしました。
しかし、今回立ち寄った石垣島の御嶽には、ほぼ付いておりましたよ。
拝殿。
拝殿の背後には、イビを画するものと思われる石垣を確認することができました。
海が見えてまいりました。
大石御嶽。
黒石御嶽のとなりにありました。
大石御嶽の隣には、
今回の旅でぜひともご尊顔を拝し奉りたかった御仁が!
この人は、
“オヤケアカハチ”。
このオヤケアカハチなる人物は、
いったいどういう人だったのでしょうか?
まずは、この一文から。
「琉球王朝の第二尚氏、尚真王氏(ママ)時代、つまり西暦一五〇〇年前後、八重山の大浜在住のオヤケアカハチが反乱した。」(※12)
ここからは、オヤケアカハチが、
琉球王府に対して反乱を起こした首謀者だったということがわかります。
なお、
“第二尚氏”とありますが、いわゆる琉球王府の王家(尚氏)は、琉球統一から琉球処分まで、一統ではなかったのです。
中山王だった尚巴志(第一尚氏)が北山と南山とを攻略して琉球を統一するものの、その後、第一尚氏7代目のとき、尚氏の家臣だった金丸かなまるがクーデターによって王座に就き、尚円王と名乗って尚氏の姓を継ぎました(第二尚氏)。
この第二尚氏が、明治政府による琉球処分まで琉球を統治したのでした。
話をオヤケアカハチへ戻します。
オヤケアカハチとは、当時の「石垣島の大浜地区の支配者」(※13)であって、「波照間島生まれのオヤケアカハチは、大望を抱き一時、竹富島に移り住むが、竹富島を経由して、石垣島の大浜に居住することになる。大浜では人々の信頼を受け酋長になったという。」(※14)とあるとおり、
ここ大浜一帯を支配領域とするいわゆる豪族だったわけです。
当時は八重山諸島は琉球王府の支配を受けており、島民に対して重税を課していたとのこと。
「大きな島の石垣島でも、琉球王朝に取入っている親方衆を除いて農漁民たちは貧しい生活を喘いでおり、アカハチは、その味方をせずにはいられなくなる。
彼は、農漁民窮迫の真因は王府の定めた年貢の高いことにあると考え、その減免を願い出たが、王府に取入っている島の有力者=長田大翁主ながたのうふしゆは激怒した。」(※15)
ちなみにこの長田大翁主さん、オヤケアカハチ暗殺のために自分の妹である古乙姥 くいつば をオヤケアカハチの嫁に差し出したそうです。
ところがこの古乙姥さん、なんとオヤケアカハチに心底惚れ込んでメロメロになってしまい、計画は実現しなかったのだとか。
オヤケアカハチは「琉球王府の正式の記録である『球陽』には三年間も貢納しなかったというのである」(※16)とあるものの、いつまでも拒否し続けることができず、実力行使へ。
「アカハチはついに長田大翁主を討ちにかかった。急襲したといわれる。この戦で、長田の二人の弟、那礼塘なれとう、那礼嘉佐成なれかさなりは殺された。長田はかろうじて難を逃れ、西表島の古見こみに落ちのびた。」(※17)
一旦は勝利したかに見えたオヤケアカハチ。
しかし、「一五〇〇年二月二日に、首里王府は軍勢を出した。軍船の数を、『球陽』は四六艘とし、尚真王の事蹟を伝えた『百浦添欄干の銘』には一〇〇艘としている。兵の数を『球陽』は三〇〇〇余としている。」(※17)とあるとおり、王府が大軍勢を率いて掃討に乗り出し、「王府軍が上陸したら、なにしろ多勢に無勢で勝負はきまっていた。アカハチらは善戦もむなしく、ここに憤死したのである。」(※18)との結末を迎えたのでした。
今でも大浜に暮らす人々にとっては、自分たちの先祖とともに歩み、ともに汗をかいて働き、先祖のために戦ってくれたオヤケアカハチは、大浜の英雄であるとお考えなのでしょう。
その想いが、この像の建立に至ったのかもしれません。
オヤケアカハチ像の向かって右側にも、御嶽がありました。
手元にある文献には記載がなかった御嶽。
ネット上では、火の神御嶽(ビィナカンオン)と紹介されておりました。
崎原御嶽(サキバルオン、サキィバルオン)
この奥がイビかな?
ここからは、道をそれて進んでいくと、
出た!
沖縄名物“野良ポトス”。
しかもデカい!
観葉植物のやつとは比べ物にならないね。
さらに進んで行くと、
クワズイモ?
八丈島でも見たけれど、密集度合いがぜんぜんちがう。
あぎじゃびよい!(うわ!)
ぬーやるばーがー。(なんということだ。)
一月だというのに、アサガオが咲いているよ!!
これまたデカい石だこと。
それに木が生えとるがね。
津波大石だってさ。
流されて来たのね。
階段が付いてはいましたが、
イビである可能性もあるので、上がるのは止めました。
津波大石の隣にあるのが、
オヤケアカハチの碑。
オヤケアカハチさんと奥さん(古乙姥 くいつば さん)とが並んで祀られておりました。
古乙姥さんの碑は、かつては別の場所にあったみたいですね。
碑文を乗せておきますが、
気になるとこを抜粋して紹介します。
へー!
日本(ヤマト)では明治維新後までなかった自由民権運動が、ここ石垣島では室町年代にはすでに始まっていたの???(自由民権って表現はどうかと思うな・・・。)
石垣島での自由民権運動に関心していたら、
雨がやみましたよ!
いよいよ海へ。
大浜海岸。
岩場なので海水浴ができない大浜海岸。
観光地ではないせいか、誰もいない。
ここも、何らかの祈りの場だったらしい。
(ネット上では、東崎浜(カースンヤー浜)の願所と紹介されておりました。)
石を並べた祈りの場。
そういえばこういう祈りの場、
↓郷ノ浦港(長崎県壱岐市)でも見たよ。
(壱岐郷ノ浦港にて)
砂が白いね!
オイラの家の近所にある人工海浜(東京湾)とはぜんぜんちがう。
砂地のとなりには、珊瑚でいっぱいの場所がありました。
ワタクシは今、無数に横たわる動物の死骸の上を踏みつけて歩いているわけでございます。
珊瑚の次は、岩場。
地層が見えていますね。
その岩場の一角に、
波で浸食されたと思われる割れ目がありました。
その岩の割れ目の上にあるのが、
これ!
オヤケアカハチの足跡なんだってさ。
それにしても、静かな海。
晴れていたら青色がもっと鮮やかだったことでしょう。
時刻は午後一時。
腹が減ってまいりました。
前泊商店さんで買ってきた、
じゅーしーおにぎりとフライのセット(¥130-)を、
オリオンゼロライフとともにいただきます。
まずは、石垣島に嘉例(かりー:乾杯)!
“じゅーしー”は、沖縄の炊き込みご飯。
豚肉が入っていて、味がしっかり!
でも豚の脂で手がベトベト。
このフライも、ラードを使っているのかな?
なにもつけなくても十分においしい!
くわっちーさびたん!
まーさんでした。
天気も良くなりつつあるので、
中心地を目指して、西へと歩いて行きました。
それにしても、蒸し暑い!
雨が降ってすぐに止み、日が差してきたからでしょう。
一月だというのに、こんな格好でも汗だくでした。
フクギだ!
沖縄の街路樹の代表格ですね。
沖縄では、
丁字路の突き当りには、
石敢當(いしがんとう)があるのが当たり前。
魔除けだそうですね。
シーサーもいるさー。
守り神だもんね。
私としては、赤瓦屋根の上にいる印象が強かったシーサー。
建物が高層化するにつれて、門番へと役割を変えつつあるのかな?
ベニデマリ?、サンタンカ?
これも沖縄の街路樹でよく見かけますね。
しばらく歩くと、公園らしき場所を発見。
でもこれって、御嶽だね!
(安居御嶽(アングンオン))
ここは鳥居をくぐって参拝させていただきました。
公園の一部になっているわけですから、どう見ても参拝してもよいタイプのやつでしょ!
側面から、イビや石碑が丸見えでした。
さらに歩いて行くと、
糸数御嶽(イトゥカジオン)。
航海安全を祈った御嶽だってさ。
拝殿は、あまり手が加えられていない様子。
これは入ってはいけないやつでしょう。
側面からは、イビが丸見え。
イビの奥(西側)は道路に面しており、
石垣越しに、祭壇のようなものがあることが確認できました。
これも御嶽。
天川御嶽(アーマーオン)。
域内には遊具があるし、
説明版もあったので、
参拝可能と判断し、域内に入って拝ませていただきました。
拝殿の背後には。イビとの結界が。
ここへは近づきませんでした。
さらに歩くと、また御嶽らしき森を発見。
いきなりイビとの結界が!
西側へ回ると、鳥居がありました。
美崎御嶽(ミシャギオン、ミサキィオン、クギオン)
オイラには、よそ者の立ち入りを拒んでいるような佇まいだと感じました。
拝殿。
鳥居の手前から中を眺めていたら、
勝手に入り込んで写真を撮っているいい歳したおっさんがいたよ。
オイラの姿を見たら、隠れやがった。
ということは、こいつ確信犯だな。
信仰している人たちの気持ちを蹂躙するな!
ホテルに到着。
予約してあるお店の開店時刻は午後6時。
それまでは、チト早すぎ。
繁華街であるユーグレナモールを徘徊。
3種GET!
でもこれ、全部重複でした。
空港で入手したものを確認しなかったツケが回ってきたのでした。
徘徊していると、いい時間になりました。
今日は、“居酒屋ぶーやー”さんへ。
まずはオリオン!
くわっちーさびら。
ニガナの白和え。
あたしゃどうしてもこれを食べたくて、ぶーやーさんを選んだのでした。
苦味あるが、けっして嫌な苦味ではない。
むしろ青みがほどよくて爽やか。
それにごま油が香ばしいね。
やみつき塩ダレきゅうり。
梅と鰹節風味。
鰹節の味が濃くて、ビールが進む。
それにやっぱり、地方へ来ると野菜がおいしい!
目の前には、石垣島産の泡盛が勢ぞろい。
白百合を水割りでいただきました。
含むと華やかな香りかすかに感じます。
割ってあるのに、米の風味に厚みがありました。
黒麹の香ばしさは弱め。
割ってあるせいか、けっこう飲みやすいわ。
マグロの刺身。
これはおいしい!
臭みはなく、水っぽさもない。
オイラの家の近所にあるスーパーで売っているやつとはぜんぜんちがう!
宮之鶴をロックで。
ピリあるけれど、強くない。
かなり辛口で、キリッとしていますよ。
でも、黒麹の香ばしさ効いていて、飲み応えを感じました。
くわっちーさびたん!
おいしかった!
念願のニガナ白和え、食べることが叶って大満足でした。
二軒目は、石垣島ヴィレッジへ。
ここは小さな店舗が集合している、酒好きにはたまらない場所。
“たたんばぁ”さんへ。
そういえば、宮崎にもお店がありましたね。
一杯目は、請福イムゲー。
香りが華やか。芋の風味穏やかで香ばしく、甘味もはっきりしています。
なお、「イムゲーって何?」とお思いの御仁は、こちらをご参照くださいな。
ポテトサラダをつまみつつ。
二杯目は、島うらら。
石垣産の米で造った泡盛は、米の風味が豊かで、黒麹の香ばしさがおだやかでした。
泡盛と言えばタイ米使用が一般的ですが、地元産のお米で造ったものもあるのね。
甘辛肉団子(3個100円)。
これ、ショウガが効いていてものすごくおいしい!
三杯目は、赤馬。
南国のお酒っぽい華やかな香りがしっかり。
黒麹の香ばしさは穏やかでした。
くわっちーさびたん!
たたんばぁさん、宮崎でも石垣島でも大満足でした。
こうして、石垣島での一日目は、終わりを告げたのでした。
★☆2024年1月20日(土)★☆
翌朝も、やや曇り気味。
まずは街の西側へ歩いて行ったのでした。
御嶽を発見!
長田御嶽(ナーターオン)
一説によれば、長田大翁主ながたのうふしゆ(オヤケアカハチに攻められて西表島へ逃げた人)の一族を祀ってあるとか。
ガジュマルのアーチを発見!
すごいね。
根っこがさ、タイルの目地に沿って網目状に伸びていましたよ。
土がある場所が本能的にわかるんだね。
桃林寺へ。
1614年(慶長19年)開山の古刹。
大坂冬の陣が起きた年ですよ!
本堂で合掌。
境内を散策していたら、
「こんなところにあっていいの?」
と思うものを発見。
これ、
厨子甕(ジーシガーミ:琉球様式の骨壺)ですよね。
遺体を風葬した後、洗骨した骨を納めるやつですよ。
誰か入っているのかな?
「地球上の生きとし生けるもの、草も木も山も川もすべてのものは、お互いに恩恵をうけ、また与えあっている同じ船の客である」という禅語なんだってさ。
平成26年に整備しなおした記念の碑でした。
その背後には、墓石らしきものが並んでおりました。
手元にある文献(下郡剛編著『近世琉球寺院の原風景を追う―石垣島桃林寺の墓碑と三牌―』2015.3 日本史史料研究会)によれば、かつてここには僧侶の墓地があったそうです。
それを上記のとおり整備しなおしたのだとか。
墓石らしきものは、その当時に移設した墓石だそうです。
にゃんこ登場!
遊んでくれました。
ありがとうね。
これも御嶽か?
由来が記された碑があったので、入ってよろしいと解釈いたしました。
入らなきゃ読めませんからね。
八重山キリシタン事件殉教の地だって。
十字の紋が印象的。
これも御嶽の一つ(元宮良の主の御嶽(ムトゥメーラヌシューヌオン))に数えるみたいでした。
本日の折り返し地点まで到達。
長崎御嶽(ナースクオン、ナーサキィオン)
神域へ入れそうな気配はなし。
それ故、鳥居の手前から参拝させていただきました。
でもこの長崎御嶽、隣が公園になっていたのでした。
それ故、イビが丸見えでした。
長崎御嶽からは、今朝来た道の一本南側の道を通って、東へ折り返しました。
途中で立ち寄った酒屋さんで、瑞泉の古酒を見つけてGET!
100mlで600円だってさ。
途中で北へ進路を変更し、さらに歩いていると、
なにやら御嶽のようなものを発見!
へー!
長田大翁主霊だってさ。
またしても出てきた、オヤケアカハチの関係者。
八重山農林高校の一角に、
とある頌徳碑を発見!
うわ!
これ、
このブログではものすごく重要!
ものすごく重要なので、文字に起こしました。
「波照間髙康ハ大史姓第五代目ノ大偉人デ西暦一六九四年(元禄七年)西表首里大屋子時代公用デ首里ヘ出張セラレ公務ヲ終エテ八重山ヘ帰ル途中台風ニ遇イ清國ノ鎮海二漂着シタガ幸ニ厦門将軍大老爺ト面会シ「黄ハンス芋」ノ貴重ナル食糧作物タルコトヲ始メテ知リ其ノ種子ヲ頂キ大事ニ持ッテ琉球本島ニ安着シ直チニ薯種子ヲ垣花ニ仮植シ琉球本島ヘモ分ケ與エソレカラ無事ニ帰郷シテ移植シタノガ八重山ニ於ケル甘藷伝來ノ初メデアル爾來八重山ハ凡ユル災難ニ遭ツテモ芋ノ惠ミニヨツテ救世セラレテキタノデアルココニ於テ島民ハ芋ノ恩惠ニ浴スルト共ニ翁ノ偉功ノ崇髙ナルヲ深ク肝銘シタノデアル翁ハ八重山産業ノ大恩人デアリ其ノ偉德ハ永ク後世ノ亀鑑トナル茲ニ全住民ノ喜捨浄財ニヨリ碑ヲ建テ其ノ功德ヲ賛仰スル次第デアル」
このことは、手元にあった文献でも紹介されておりました。
さつまいもが大陸から琉球へ伝来したルートは複数あるみたいで、そのうちの一つらしい。
このブログでは、かつて、
さつまいもの伝来について、
琉球から薩摩へ伝えた、前田利右衛門さん。
薩摩から八丈島へ伝えた、菊池親子。
の2例を紹介してまいりました。
そして今、ここに、
大陸(清国)から八重山へ伝えた波照間高康さんの例が追加されたのでした。
めでたし、めでたし!
(自己満足だな)
さつまいものことを考えていたら、腹が減ってまいりました。
そこで向かったのは、知念商会さん。
知念商会さんと言えば、
“オニササ”ですよね。
ささみフライ(¥200)を取って、
おにぎり(¥80)を取って、
あいだにソースをかけて、
袋を裏返して、
ギューッ!
オニササのできあがり。
おにぎりとささみフライとをギューッとするから、オニササ。
でーじまーさん!(とてもおいしい!)
ささみがやわらかくて、衣がカリカリ!
お米はつやつやした炊き方で最高!
その両者がギューッで熟(な)れた感じがとてもおいしい。
これにはビールやな、ビール!
(なんで2回言うんだよ)
オニササで、お腹も心も満たされました。
知念商会さんから進路を南へ戻した酔っぱらい。
さらに歩いていると、
小学校に出くわしました。
その一角に、奉安殿を発見!
戦前戦中にかけて建てられた、御真影(天皇皇后の写真)と教育勅語とをしまっておくための倉庫。
かつて筑波鉄道筑波線の真壁駅跡で見かけて以来のご無沙汰でした。
さらに歩いていると、路地の奥に鳥居を発見。
手元にある文献には記載なし。
ネット上では、岸若御嶽(キツィパカオン)と紹介されておりました。
小さな御嶽でした。
ユーグレナモールへ戻ってまいりました。
そこで、これらをGET!
これらは石垣島産ではごさいませんが、初見故にGETいたしました。
ホテルへ戻ってきた酔っぱらい。
二日間の成果を梱包し、
郵便局から発送。
これだけあると、飛行機の機内へ持ち込めないでしょうからね。
その後徘徊を再開していたら、雑貨店を発見。
FILさん。
あーあ、
また悪いクセが出てしまった(¥1,650-)。
連れて帰って来てしまったのでした。
.
時刻はいささか早めでしたが、
飲み始めることにいたしました。
730交差点。
その北側にあった、73バルさんへ。
730円で三杯飲めるんだってさ。
ただしビールは+90円。
まずはオリオン生。
歩き回ったせいか、いっそうおいしい!
マカロニサラダを頼んだら、
「ハーフにしたほうがいい。」と言われて、従ったのですが、
この量でハーフって、いったい?
カレー味で、チリ少し。
これは酒が進んでしまうやつですぞ!
スパムも入っとるがや。
水菜が出てきてこんにちは。
枝豆も、一人前にしてはけっこうな量でしたよ。
二杯目は、宮之鶴をソーダ割りで。
かなり軽い、スイスイと行けてしまいました。
三杯目は、請福ソーダ割り。
黒麹の風味が穏やかながらも効いておりました。
くわっちーさびたん!
¥1,600台でした
ここで引き揚げるには、いささか早すぎ。
そこで今日も、石垣島ヴィレッジへ。
せんべろ風土さんへ。
1,000円で三杯+小鉢のシステム。
ただしビールは一杯のみ利用可。
ここでもまずはビールから。
ゆし豆腐。
豆の味が濃いね。
柴漬け食べたい!(山口美江より)。
八重山かまぼこ。
赤坂小町!
じゃなかった、プリプリ!
二杯目は、請福ロック。
おいしい!
麹の香りほんのり
苦味少しあって、黒麹の香ばしさはっきり。
甘みもほんのり感じました。
アジフライ。
揚げたてに限る!
三杯目は、於茂登ロック。
アルコール香かすか。甘くて苦味が鋭い。麹香り弱め。
これもおいしいね。
くわっちーさびたん!
¥1,800台でした。
まだ明るいですけれど、
けっこう飲んだので、これで退散。
ホテルへ戻ったのでした。
こうして、石垣島での二日目は、終わりを告げたのでした。
★☆2024年1月21日(日)★☆
三日目の朝。
雨でした。
最終日は、昼の便で成田へ戻る予定でした。
そこでまずは、730交差点を渡って、
バスターミナルの位置を確認したのですが、
戻ろうとしたら、
マラソンが始まっていて戻れず。
しかたがない。
戻れないとわかったからには、そりゃ、
たとえ朝であっても、
飲むしかしかたがありません罠。
9時発のバスに乗ろうとしたのですが、
運転手さんが到着したのが3分後で、出発が4分後。
沖縄の人は、ゆっくりだねぇ。
しかもバスは、マラソン渋滞に引っかかって動けやしない。
なんとか石垣空港にたどり着いたのですが、
通常では30分ほどの行程のはずなのに、
一時間近くかかってしまったのでした。
腹が減ったので、早めの昼食。
そういえば、石垣島へ来たのに、八重山そばを食べていませんでした。
魚の出汁がおいしい。
丸麺で、噛み応えしっかり。
もちろんビールにも合う!
くわっちーさびたん!
帰りもpeach
石垣島よ、さようなら。
生きてさえいれば、また来られるだろう。
この日も窓から見えたのは雲ばかり。
しかたがないので、ビールを飲みながら帰ったとさ。
その日の夜のこと・・・。
昨日送ったばかりの荷物が、
もう届いちゃった!
成果を無事、回収することができたのでした。
めでたし、めでたし!
【引用した文献】
(※1)李春子『八重山の御嶽-「祈り」と「祭り」の祭祀空間』p.130(李春子編著『八重山の御嶽-自然と文化』p.130-199 2019.3 榕樹書林)
(※2)岡谷公二『沖縄の聖地 御嶽 神社の起源を問う』p.12(2019.2 平凡社新書905)
(※3)赤嶺政信監修『沖縄の神と食の文化』p.23(2003.4 青春出版社プレイブックスインテリジェンスPI-055)
(※4)(※2)p.8-12
(※5)色川大吉『御嶽信仰と祖先崇拝-八重山群島石垣島の場合-』p.150(東京経済大学人文自然科学論集 通号94 p.162-150 東京経済大学人文自然科学研究会)
(※6)(※3)p.24
(※7)(※5)p.162
(※8)(※5)p.162-161
(※9)藤井佐美『石垣島の御嶽と説話-四箇の伝承事例を中心に-』p.146-148四箇御嶽一覧表より(説話・伝承学 20巻 p.144-160 2012.3 説話・伝承学会)
(※10)(※2)p,17-18
(※11)(※1)p.2
(※12)丸山顯德『沖縄八重山のオヤケアカハチの戦い』p.228-229(アジア遊学 189号 p.228-232 2015.09 勉誠出版)
(※13)大城立裕『琉球の英傑たち』p.147(1992.10 プレジデント社)
(※14)(※12)p.230
(※15)上笙一郎『日本植民地児童文学史 稿・30 叙事詩『オヤケ アカハチ』の役割 -琉球=沖縄篇(4)の下』p.36(日本古書通信 第982号 p.36-37 2011.5 日本古書通信社)
(※16)(※12)p.229
(※17)(※13)p.156
(※18)(※13)p.157
スクロール疲れました。
分割してください。
by ma2ma2 (2024-01-26 22:35)
わぁ~うらやましいステキ旅☆
by ロコときどきキナコ (2024-01-26 23:00)
1000ベロ良いですね(^^)v
一気読みしまいた、楽しかったです。
by tarou (2024-01-27 06:28)
石垣島、お疲れ様でした。オニササを食べられたのですね。やはり便利な食べ物ですね。
by newton (2024-01-27 15:49)
酒集めと沖縄の旨い物を満喫したんですね。いいな~^^
by タンタン (2024-01-28 09:29)
ma2ma2さま、それでもお読みいただきましたこと、厚く御礼申し上げます。
<(_ _)>
分割してしまうと、旅の臨場感が消えてしまうのです。
どうかテキトーにお読みいただき、時々鼻で笑っていただければ幸甚です。
by skekhtehuacso (2024-01-28 18:51)
ロコときどきキナコさん、あたしゃこれしか楽しみがないものですから。
出かけているときだけは、自分が誰にも支配されない人格的自律の存在であるということを実感できるのです。
by skekhtehuacso (2024-01-28 18:52)
tarouさん、一気にお読みいただいてありがとうございます。
というか、それほど内容の深い記事ではございませんから、テキトーにお読みいただいて構いません。
by skekhtehuacso (2024-01-28 18:54)
newtonさん、オニササご存知でしたか。
安くて簡単でおいしくて、しかもビールにバッチリでした。
by skekhtehuacso (2024-01-28 18:55)
タンタンさん、あたしゃこれしか楽しみがないもので。
石垣島は沖縄本島よりも南であるせいか、かなり暖かい場所でした。
湿度は高めでしたが、気持ちよく徘徊できました。
意外と繁華街は人多めで、お店もいっぱいあって、夜は楽しく過ごせました。
by skekhtehuacso (2024-01-28 18:57)
沖縄県民である私でさえ知らない御獄の詳細!勉強になりました^^
1月なのに蒸し暑かったでしょうね^^;
またいらしてください!!
by Rinko (2024-01-29 08:55)
Rinkoさん、私も石垣島へ行こうと決めるまで、御嶽のこともオヤケアカハチのことも全く知りませんでした。
大事なことはみな、お酒が教えてくれるのだと、いつもそう思います。
石垣島は一月なのに暑く、かつ日の出も日暮れも遅く感じました。
沖縄は、本島北部や宮古島へも行ってみたいと思います。
by skekhtehuacso (2024-01-29 21:12)