【お酒】1363.日本橋 ホームカップ【訂正あり】 [11.埼玉県の酒]
横田酒造株式会社
埼玉県行田市桜町2-29-3
アルコール分15.0度以上16.0度未満
原材料名:米(国産)・米麹(国産米)・醸造アルコール・糖類・酸味料
180ml詰
(以上、フタより転記)
“ホームカップ”はともかく、埼玉県のお酒なのにどうして“日本橋”なの?
蔵元さんのWebsiteでは、「文化二年(1805年)創業。初代横田庄右衛門は、滋賀県出身。他の近江商人と同じく、江戸の商圏で一旗上げるため、関東近郊の水の良い土地を選び、酒蔵を建てる。 酒名「日本橋」の由来は、創業者が、日本橋の酒問屋で修行の後、独立する際、"初心忘るべからず"、との家訓をこめてつけられたものです。」と紹介されておりましたよ。
創業なさった時期から推察するに、日本橋の酒問屋ってのは、もしかしたら日本橋の近くにある“新川”にあった酒問屋のことでしょうか?
中央区新川、
【訂正】新川は、埋め立てられていて現存しないみたいです。
下の地図中、右端にある“新川の跡碑”あたりから左上のほうへ延びていたみたいでした。
お詫びして訂正させていただきます。
この新川の両岸は、江戸時代から関東大震災の頃まで多くの酒問屋が軒を連ねていた場所で、下り酒(灘や伊丹、池田などいった関西の銘醸地から運ばれる酒)や地廻りの酒(江戸の周辺で造られた酒や尾張の中国酒のように、関西の銘醸地以外で造られた酒)が集まる、江戸東京における酒の一大集積地だったようです。
このことについて、文献には以下のような記述がありました。
「 隅田川(大川)から、大川端町、霊岸島四日市町、銀(しろがね)町、富島町を過ぎて亀島川へ通じる延長六〇〇メートル足らずの堀割り・新川の両岸一帯は、江戸時代から大正十二年の関東大震災ごろまで、酒蔵(さかぐら)の町として繁盛したところであった。
新川は上戸(じょうご)の建てた蔵ばかり
「武玉(むたま)川」宝暦の部
しん川の手からは水をあびせられ
「誹風柳多留」寛政の部
新川の菰(こも)っかぶりは蔵住居(くらずまい)
「誹風柳多留」文化の部
と、新川は江戸庶民の文芸・川柳にも数多く詠(よ)まれ、明治期においては「風俗画報―新撰東光名所図会(ずえ)(明治三十四年八月刊)に次のように紹介されている。
新川の名世に聞ゆるや久し。故(ゆえ)に新川といへは、人皆酒問屋の本場たるを知る。新川は実に天之美禄(てんのびろく)の分配所たり。酒船の往来する川流を夾(はさ)みて、左右皆問屋たり。酒庫(さかぐら)相連なる其(そ)の数幾棟なるを知らす。凡(およ)そ酒問屋は下り酒、地回り酒の二種に区別し、下り酒は寛文、貞享(じょうきょう)年間、下り酒酢(す)醤油問屋と称し、人員八十名あり。
日本橋の酒問屋に入る灘などの酒は、すべて酒船で隅田川(大川)から、この堀割りを利用して新川の酒問屋に運ばれ、酒といえば新川の酒問屋を連想するほど、酒蔵の町として知られたところであった。」(※1)
話がそれてしました。
今日いただくこのカップ酒ですが、誠に残念ながら糖類酸味料フル添加の三増酒でした。
普通酒ですので、今日もぬる燗でいただきます。
お酒の色はほとんどわからない程度で、透き通った感じがありました。
最初に酸味を感じました。
すっぱさが少し強めで、鋭さを少し感じました。
それに、アルコール由来と思われるさわやかさもありますね。
また、かすかにピリッと感じます。
うまみはやや淡めです。
酒臭さはほとんどなく、むしろ添加されたような画一的な味わいのように思いますが、クドさはそれほどでもないみたいです。
苦みや雑味はないみたいです。
キレはやはりよく、透明感がありますね。
甘みはややはっきりしています。
べとついた感じはしませんが、とろみのような舌触りをわずかに感じます。
やや淡麗でちょいすっぱやや甘口のお酒でした。
添加された味わいのようでしたが、しつこさやクドさは感じませんでした。
アルコールのさわやかさや透明感から推察するに、もしかしたら多めのアル添と多めの加水とで味を調整してあるのでしょうか?
(※1)髙木藤夫・髙木文雄・沢和哉共編『酒蔵の町・新川ものがたり―髙木藤七小傳』p.15-16(1991.4 清文社)
生きていくために必要なお酒なのね。
ナイショで作ってみるのも良いかもよ。
売らなきゃ、バレへんちゃう!?って・・・・・・・
私が言うた!って・・・・ナイショにしててね。(笑)
私は、最近・・・毎晩赤ワインが楽しみです。
by hatumi30331 (2018-03-28 00:48)
そうなんですよ hatumi30331さん。
飲まなきゃ生きていけないんですよ。
でも、やっぱり密造はいけませんね。
by skekhtehuacso (2018-03-28 21:13)