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2021年の初詣は、“元八まん”へ [散歩]

 
 偶然のよろこびは期待した喜びにまさることは、わたくしばかりではなく誰も皆そうであろう。
 わたくしが砂町(すなまち)の南端に残っている元八幡宮(もとはちまんぐう)の古祠(こし)を枯蘆(かれあし)のなかにたずね当てたのは全く偶然であった。始めからこれを尋ねようと思立って杖を曳いたのではない。漫歩の途次、思いかけずその処に行き当ったので、不意のよろこびと、突然の印象とは思立って尋ねたよりも遥に深刻であった。しかもそれは冬の日の暮れかかった時で、目に入るものは蒼茫(そうぼう)たる暮烟(ぼえん)につつまれて判然としていなかったのも、印象の深かった所以(ゆえん)であろう。」(※p.211)






これは、永井荷風が昭和9年(1934年)の暮れに書いた、
“元八まん”という随筆の冒頭です。
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“元八まん”は、岩波文庫にしてわずか8ページの短編です。
しかしそこには、
荷風があてもなく徘徊して偶然に“元八幡宮”なる神社にたどり着いた過程が生き生きと描写されているのです。

数年前にそれを読んだ私は、
荷風先生が歩いた道を、いつか自分もたどってみたい!
と、ずっと思っておりました。

そこで今回、初詣にかこつけてそれを実践し、“元八まん”なる神社を探すことにいたしました。

その顛末を、荷風先生の表現とともに、ここに報告させていただきます。










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と、その前に、

先日、新型コロナウィルス対策として2回目の緊急事態宣言が一都三県で発令されましたね。

それ故に、私の行動を「不謹慎だ!」とお思いの御仁もいらっしゃることでしょう。

そのとおり!
不謹慎ですよ。
ご批判は、甘受いたします。

でもね、ただ一つだけ反論すれば。
「徹頭徹尾、単独行動ですから。」

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 或日わたくしは洲崎(すさき)から木場(きば)を歩みつくして、十間川(じっけんがわ)にかかった新しい橋をわたった。橋の欄(てすり)には豊砂橋(とよすなばし)としてあった。橋向(はしむこう)には広漠たる空地がひろがっていて、セメントのまだ生々しい一条(ひとすじ)の新開道路が、真直(まつすぐ)に走っていたが、行手には雲の影より外に目に入るものはない。わたくしはその日地図を持って来なかったので、この新道路はどこへ出るものやら更に見当がつかなかったのであるが、しかしその果(はて)はいずれ放水路の堤に行き当っているにちがいない。堤に出さえすれば位置も方角も自然にわかるはずだと考え、案内知らぬ道だけにかえって興味を覚え、目当もなく歩いて行くことにしたのである。」(※p.211-212)


まずは東京メトロ東西線の木場駅(東京都江東区)から。
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ここで、初っ端からこの旅の楽しみをくじくような出来事が発生。

オイラが木場駅を出て歩道の端を歩いていたら、自転車に乗った初老の男が突っ込んできて、オイラの直前で急ブレーキをかけやがった。
それはオイラがよけるだろうとの算段だったのだろう。
おいおい、東京の歩道はいつから自転車優先になったんだ?

その初老の男は、オイラの顔を見続けたまま、動こうとしなかった。
おそらくそれが、「どけ!」という意思表示だったのだろう。

だからオイラはマスクを外し、眉を顰めつつ顔を近づけて、
「ここは歩道だぞ!、どういうつもりなんだ!」
って怒鳴ってやった。

そうしたらそいつ、勝算なしと踏んだのか、急に低姿勢になって、
「すみません。」
とつぶやいてさっさと逃げて行きやがった。

あーあ、
こういう厚顔無恥で非常識な輩が蔓延るから、オイラはこの世の中で人間が一番キライなんだよな。

猫はそんなことはしないもんね~♪
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(友情出演)








いかんいかん。
気を取り直して、旅の報告へ。


“洲崎(すさき)”は、かつて遊郭があった場所。
その遊郭は1958年(昭和33年)の売春防止法施行により消滅してしまいました。
同じ遊郭でも、吉原はお風呂屋、飛田は料理屋の名目でそれぞれムフフな店が残っている例とは対照的ですね。
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この通りの両脇には、遊郭(カフェー)が建ち並んでいたのかな?
今はマンションへと変わってしまっておりましたよ。
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こちらは洲崎の北東端。
この段差から、かつては外界と隔離されていたことが偲ばれます。
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その洲崎から横十間川の跡にある公園を歩いて、
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やって来たのは、豊砂橋
橋の銘版を探したのですが、見つかりませんでした。
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ただ一つ、橋の下にある道を示す案内板には、豊砂橋の名が記されておりました。
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 道が爪先(つまさ)き上りになった。見れば鉄道線路の土手を越すのである。鉄道線路は二筋とも錆(さ)びているので、滅多に車の通ることもないらしい。また踏切の板も渡してはない。線路の上に立つと、見渡すかぎり、自分より高いものはないような気がして、四方の眺望は悉く眼下に横わっているが、しかし海や川が見えるでもなく、砂漠のような埋立地や空地(あきち)のところどころに汚い長屋建(ながやだて)の人家がごたごたに寄集ってはまた途絶えている光景は、何となく知らぬ国の村落を望むような心持である。遥のかなたに小名木川(おなぎがわ)の瓦斯(ガス)タンクらしいものが見え、また反対の方向には村落のような人家の尽きるあたりに、草も木もない黄色の岡が、孤島のように空地の上に突起しているのが見え、その麓をいかにも急設したらしい電車線路が走っている。と見れば、わたくしの立っている土手のすぐ下には、古板(ふるいた)で囲った小屋が二、三軒あって、スエータをきた男が裸馬に飼葉(かいば)を与えている。その側(そば)には朝鮮人の女が物を洗っている。わたくしは鉄道線路を越しながら、このあたりの光景を名づけて何というべきものかと考えた。かつて何もなかった処であるから、荒廃でも破壊でもない、放棄せられたまま顧みられない風景とでもいうのであろう‥‥‥。」(※p.212-213)


豊砂橋から葛西橋通りを歩いて行くと、踏切がありました。
荷風先生は鉄道線路の土手と表現されておりましたが、土手というほどの高さは感じませんでした。
もしかしたら、戦後の高度成長期にこの辺り一帯で生じた地盤沈下(地下水の過剰汲み上げに起因)で低くなっちゃったのかな?
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この線路は、総武本線の越中島支線。
昭和の頃は貨物の取り扱いがあったみたいですが、今は終点の越中島貨物駅から搬送される鉄道のレールを運搬することだけが唯一の役割なのだとか。

線路の“土手”の上に上がってみました。
小名木川方面を眺めてみましたが、「瓦斯タンクらしいもの」は見当たりませんでした。
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たしかに線路は少し錆びていますね。
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荷風先生は線路の土手の下に人々の生活の情景を見たようですが、現代のワタクシにはマンションしか見当たりませんでした。
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でも線路の脇を見ると、線路が周辺よりも一段高い場所にあることがなんとなくわかりました。
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 セメントの新道路は鉄道線路の向へ行っても、まだ行先が知れない。初めわたくしはほどなく荒川(あらかわ)放水路の土手に達するつもりであったので、少し疲労を覚えると共に、俄(にわか)に方角が知りたくなった。丁度道の片側に汚い長屋建の小家のつづきはじめたのを見て、その方の小路(こうじ)へ曲ると、忽ち電車の線路に行当たった。通りがかりの人に道を尋ねると、左へ行けばやがて境川(さかいがわ)右へ行けば直ぐに稲荷前(いなりまえ)の停留場へ出るのだというのである。」(※p.213)


踏切を渡って葛西橋通りを進んで行くと、明治通りとの交差点にさしかかりました。
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この明治通りには、かつて路面電車(東京都電38系統:錦糸堀車庫前-日本橋間)が走っていたのだとか。
荷風先生が行当たった“電車の線路”は、きっと城東電気軌道(都電38系統の前身:水神森-洲崎間)の線路だったのでしょうね。
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右へ行けば直ぐに稲荷前の停留場へ出る
とありましたので、交差点を右(南)へ行ってみました。
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そこには、“南砂三丁目”のバス停がありましたよ。
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この南砂三丁目バス停のある場所に、かつて「稲荷前」の停留場があったのだとか。
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このことについて、別の文献には以下の記述がありました。
 南砂三丁目のバス停の所が都電時代の南砂町三丁目の電停があった所。ここで明治通りを分かれ、再び38系統の電車は専用軌道となる。
 電車停留場の名前はよく変わる。ここもかつては稲荷前という電停であった。」(★)


南砂三丁目は、なぜかつては“稲荷前”だったのでしょうか?

それは、この“仙気稲荷神社”が関係しているのだとか。
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 突然、行手にこんもりした樹木と神社の屋根が見えた。その日深川(ふかがわ)の街からここに至るまで、散歩の途上に、やや年を経た樹木を目にしたのはこれが始めてである。道は辻をなし、南北に走る電車線路の柱に「稲荷前」と書いてその下にベンチが二脚置いてある。また東の方へ曲がる角に巡査派出所があって、「砂町海水浴場近道南砂町青年団」というペンキ塗の榜示杭が立っていた。」(※p.214)


「稲荷前」の停留場について、別の文献には以下の記述がありました。
近くに江戸時代から疝気(せんき)の病に霊験のある砂村の疝気稲荷があったことによる。このお稲荷さん、昭和42年に習志野市の方へ引越してしまったという。今はそれに代わって小さな社殿が建てられている。今の世の中、だいたい疝気の病といっても「そんな病気あるの?」といわれそうである。したがって今あるお稲荷さんも仙気稲荷神社と字を変えており、近くの道路の通称も仙気稲荷通りとこれに合わせている。「疝気」、古典落語の好きな方ならご存知の言葉かと思う。「疝気の虫」という話の「疝気」である。」(★)

ちなみに“疝気”ってのは、
「漢方で腰腹部の疼痛の総称。特に大小腸・生殖器などの下腹部内臓の病気で、発作的に激痛を来し反復する状態。あたはら。しらたみ。疝病。」(▼)
なんだってさ。


これが今の仙気稲荷神社。
荷風先生がこんもりした樹木と神社の屋根と表現なさった様子とは一変しておりました。
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それもそのはず。
上記の引用中にもあるとおり、仙気稲荷神社は昭和の中期に移転してしまったんだってさ。
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二礼二拍手一礼。
疝気だけでなく、新型コロナウィルスも退治てくださいませ。
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拝殿の脇には、“砂村せんき稲荷”の碑がありましたとさ。
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 わたくしが偶然枯蘆(かれあし)の間に立っている元八幡宮の古祠に行当ったのは、砂町海水浴場の榜示杭を見ると共に、何心なく一本道をその方へと歩いて行ったためであった。この一本道は近年つくられたものらしく、敷きつめられた砂利がまだふみならされていない処もある。右側は目のとどくかぎり平(たいら)かな砂地で、その端(はず)れは堤防に限られている。左手はとびとびに人家のつづいている中に、不動院という門構の寺や、医者の家、土蔵(どぞう)造りの雑貨店なども交っているが、その間の路地を覗くと、見るも哀れな裏長屋が、向きも方角もなく入り乱れてぼろぼろの亜鉛屋根(トタンやね)を並べている。普請中(ふしんちゅう)の貸家(かしや)も見える。道の上には長屋の子供が五、六人ずつ群をなして遊んでいる。空車(からぐるま)を曳いた馬がいかにも疲れたらしく、鬣(たてがみ)を垂れ、馬方(うまかた)の背に額を押しつけながら歩いて行く。職人らしい男が二、三輛ずつ自転車をつらね高声に話しながら走り過る‥‥‥。」(※p.214-215)


荷風先生が歩いた一本道は、どうやら仙気稲荷神社の北側にあるこの道のようでした。
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その通りには、“仙気いなり通り”の表示がありましたよ。
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たしかにお医者がありました!
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仙気いなり通りは、途中で“元八幡通り”へと名乗りを変えておりました。
いよいよ目的地が近くなってきたかな?
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もしかして、これが元八幡宮?
いや、ちがうよね。
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元八幡通りをさらに進んで行くと、
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不動院ではなかったものの、お寺がありました。
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そして、どうやら元八幡通りの起点らしき交差点に差しかかりましたよ。
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 道は忽ち静になって人通りは途絶え、霜枯れの雑草と枯蘆とに蔽(おお)われた空地(あきち)の中に進入って、更に縦横に分れている。」(※p.215)
 空はいつの間にか暮れはじめた。わたくしが電報配達人の行衛(ゆくえ)を見送るかなたに、初て荒川放水路の堤防らしき土手を望んだ時には、その辺の養魚場に臨んだ番小屋のような小家の窓には灯影(ほかげ)がさして、池の面(おも)は黄昏(たそが)れる空の光を受けて、きらきらと眩(まばゆ)く輝き、枯蘆と霜枯れの草は、かえって明くなったように思われた。ふと枯蘆の中に枯れた松の大木が二、三本立っているのが目についた。近寄って見ると、松の枯木は広い池の中に立っていて、その木陰には半ば朽廃した神社と、灌木に蔽われた築山(つきやま)がある。庭は随分ひろいようで、まだ枯れずにいる松の木立(こだち)が枯蘆の茂った彼方の空に聳えている。垣根はないが低い土手と溝(みぞ)とがあるので、道の此方(こなた)からすぐ境内へは這入(はい)れない。
 わたくしは小笹(おざさ)の茂った低い土手を廻って、漸く道を求め、古松の立っている鳥居の方へ出たが、その時冬の日は全く暮れきって、軒の傾いた禰宜(ねぎ)の家の破障子(やぶれしょうじ)に薄暗い火影(ほかげ)がさし、歩く足元はもう暗くなっていた。わたくしは朽廃した社殿の軒(のき)に辛くも「元富岡八幡宮」という文字だけを読み得たばかり。境内の碑をさぐる事も出来ず、鳥居前の曲った小道に、松風のさびしい音をききながら、もと来た一本道へと踵(きびす)を回(めぐ)らした。」(※p.215-216)


元八幡通りの起点らしき交差点を右(南)へ曲がると、神社らしき建物を発見!
もちろん、現代では枯蘆も霜枯れの草も見当たりませんでした。
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さらに南側へ回ってみると、神社の正面へと出ることができました。
でも、低い土手も溝もありませんでした。
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“富賀岡八幡宮”だってさ。
これが荷風先生が辿り着いた“元八幡宮”なのでしょうか?
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扁額には、“富岡八幡宮”の文字が。
でも“元”の字はありませんでした。
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しかし鳥居の脇にあった碑には、“元八幡”の字がはっきりと!
きっとここが、荷風先生が辿り着いた“元八幡宮”なのでしょう。
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へぇ~!
富岡八幡宮の元宮だから、元八幡だったのね。
川(門前仲町)にある、何年か前に刃傷沙汰があった神社
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しかも“砂村”の由来までわかっちゃった!
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拝殿にて二礼二拍手一礼。
どうかどうか、今年こそは気兼ねなく出かけられる世の中になりますように。
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その拝殿の東側には、かつての道標と思われる碑がありましたよ。
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そして西側の奥には、赤い鳥居が。
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砂村浅間神社だってさ。
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砂村浅間神社の脇には、富士塚がありましたよ。
荷風先生が灌木に蔽われた築山と表現なさった対象は、この富士塚だったのかな?
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その富士塚には、様々な石碑がありました。
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でも石碑のほとんどは、なぜか不思議なことに半分ほど埋もれておりました。
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力石らしきものも埋もれておりました。
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これ、砲弾?
戦前のものでしょうけれど、金属供出をよくも免れたものだな。
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北側の出っ張りは、宝永山を模しているのかな?
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説明版がありました。
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あー、なるほど!
きっと昭和37年の移築時に、古い石碑や力石を埋めた状態で据え付けたのね。
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昔の写真がありました。
荷風先生の表現のとおり、灌木(低い木)に蔽われておりました。
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境内をひととおり散策したところで、
今年最初の運試し!
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なにが出るかな♪
なにが出るかな♪
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中吉、いいね!
大吉じゃなかったのは、先ほど非常識な輩に出くわした分が減殺されているからでしょう。
就中、一番の関心事である旅行が「何れに行くも損なし」なんて、幸先佳いね。
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こうして無事、荷風先生が訪れたであろう“元八幡宮”への参拝がかなったのでした。
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元八幡宮を後にした荷風先生。

とある家から格子戸をあけてショオルを肩に掛けながら外へ出た女(※p.216)が気になり、その女のあとをつけるようにして稲荷前の電停から洲崎へ向かう電車に乗車したんだってさ。

荷風先生は、その女が終点の洲崎電停で降りて洲崎遊郭の大門をくぐる様子を見届けて、公休日にでも外出した娼妓であったらしい。(※p.217)と納得したとのことでした。

ストーカーかよ!


一方、こちらの酔っぱらいはというと、日が暮れ始めると考えることは、飲むことだけ。

元八幡バス停から、東陽町駅前行の都営バスに乗って目的地を目指したのでした。
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都営バスに乗って、終点の東陽町駅前で下車。
そして東京メトロの東陽町駅から、地下鉄東西線に乗車。
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茅場町駅で、日比谷線に乗りかえ。
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やって来たのは、人形町駅(東京都中央区)。
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飲み始めるには、ちょうどよい頃合いかな?
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でも人形町へ来たからには、まずは観音様にお参りしなきゃね。
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さあ、精進落としだ!
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私が目指していたのは、松竹庵さん。
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要するに、そば屋で一杯やろうという算段だったのでした。
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まずは燗酒(大関)。
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甘口の大関が、歩き疲れた体を癒してくれましたよ。
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つまみは焼き油揚げと、
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青菜のいそべ和え。
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燗酒をさっさと空けて、そば焼酎(那由多の刻)のそば湯割りへ!
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香り高い那由多の刻が、そば湯でいっそう深みを増すのでした。
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そのそば湯割りに合わせたのは、板わさ。
かまぼこは小田原の鈴廣なんだってさ。
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赤坂小町でまいう~♪
じゃなかった。
プリプリでまいう~♪
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そして〆。
もりそばをいただきました。
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あー、うまかった!
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松竹庵さん、ごちそうさまでした。
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酔い覚ましを図るべく、帰りは少し歩くことにいたしました。
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東証の前を通り、
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日本橋高島屋の前を歩いて、
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東京駅の八重洲口へと辿り着きました。
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その東京駅からは、JR京葉線に乗って千葉へと帰って行ったとさ。
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永井荷風先生とともに“元八まん”を巡る旅。
これにて終了。

呵呵! ( ´∀`)ヵヵ



※:野口冨士男編『荷風随筆集(上)』(永井荷風『元八まん』p.211-218(1934.12)中より 1986.9 岩波文庫 緑41-7)
★:宮脇俊三編著『鉄道廃線跡を歩くⅨ』p.94-95(吉川文夫『東京都電38系統専用軌道』p.93-96中 2002.8 JTB)
▼:広辞苑 第五版 電子辞書
あ~酒臭かった!(36)  酒くさコメント(6) 
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あ~酒臭かった! 36

酒くさコメント 6

八犬伝

自転車男、とんでもない奴ですね。
お見事です!
by 八犬伝 (2021-01-11 21:06) 

ニッキー

歩道を走りながらベルを鳴らして歩行者を避けさせるのは
初老のオヤジが多いです(ー ー;)
歩道は歩行者優先ですよねぇ(-_-)
旅、どこに行っても損なし( ^ω^ )
これは今年も美味しい酒と料理ゲットの旅を楽しめと
お墨付きですねぇ♪( ´▽`)
by ニッキー (2021-01-11 22:29) 

newton

文学散歩、素敵ですね。それに蕎麦とお酒が付けば最高でしたね。小生も行きたくなってきました。
by newton (2021-01-13 14:55) 

skekhtehuacso

八犬伝さん、こういう輩に効果的に対抗するには、威嚇とともに正論を告げることだと、経験で覚えました。
by skekhtehuacso (2021-01-13 21:19) 

skekhtehuacso

ニッキーさん、この手の輩の行動は、きっと若者よりも自分はえらいんだという錯覚に起因するのでしょう。
たのむから、オイラの前には現れないでもらいたいわ。

by skekhtehuacso (2021-01-13 21:21) 

skekhtehuacso

newtonさん、自分としてはなかなか面白い徘徊でした。
そば屋で一杯は、出かける前から固く心に決めていたのでした。
by skekhtehuacso (2021-01-13 21:22) 

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